以上八首の歌には、いずれも地名が出て来る。その為、(249)の歌のように、当時の航路として三津の崎から淡路の野島を直接めざすもののあったことを知ることが出来る。巻第十五の「遣新羅使人等の歌」の中には、
(3593)大伴(おほとも)の 三津に舟乗り 漕ぎ出ては いづれの島に いほりせむ我(われ)
大伴の三津から舟に乗って漕ぎ出でるのだが、どこの港に向うのだろうか。を受けて、
(3595)朝開き 漕ぎ出て来れば 武庫の浦の 潮干の潟に 鶴(たづ)が声すも
朝出発して、舟を漕ぎ出して来ると、武庫川の河口の港の干潟に鶴の鳴く声がする。という風に、大阪湾東岸の三津の崎から、湾を横断して武庫川の河口の船泊りにいたるのを一日の行程としたらしい歌もある。しかしこれには、潮流と、そして風との影響が大きく、一概には考えられないだろう。
(250)の歌は、意味の上から追うと「敏馬を過ぎて野島の崎に舟が近づいた」ということでしかない。斎藤茂吉は、『万葉秀歌』の中で「――内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純がいいので――『船近づきぬ』という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。――」という。いい歌だ、ということは感じながら茂吉は、客観的で感慨がこもっている、としかいいようがなかったのであろう。