つぎに、姫路の中島貞信氏が所蔵する室津の本陣肥後屋の文書と伝えられるものの中に日和札が数枚見受けられる。襖の下張りということから文書は断簡が多く、年号の記載のないものもあるが一部を紹介してみよう。なお熊本藩では日和見を重視、日和山には日和見専門の役人を常置して、専門家養成のために天気を入札させて競ったとの記事が『船・地圖・日和山』南波松太郎著に詳しく記されているので、室津でも出船に先立ち熊本藩独自の方法で日和札の入札が行われていたことが十分考えられる史料である。
日和札 豊田庄左衛門
明廿三日之天気朝之内
地嵐昼立候得者北西風
吹可申与奉存候已上
正月廿二日
日和札 大嶋彦左衛門
明十七日天気やませ
日和雨天付尤北東風吹可申
様に奉存候已上
三月十六日
さて日和山にはいくつかの条件が必要とされる。
・日和を見るために展望がきかなければならない。
・湾内を一望できなければならない。
・一日に何回も登るために村から遠くなく、高くなく駆け上がれればよい。
・出港する船の無事を願い見送るために湾に近接していた方がよい。
・入り船の帆印の確認などができる距離でなければならない。
・入り船にとって目印になるような山でなければならない。(たとえば大きな木があったり、灯籠や番所などの建造物)
などなどである。室津の日和山はまさにこれらの条件を兼ね備えた山と言えるだろう。この山では雲の動く早さや微妙な色や形、また風の吹く方角や音、それに波のそよぎまで自然を注意深く見分けることが可能であり、港内が一望できる好立地である。目印となる山頂の燈籠堂近くには、長い航海を終えた船乗りたちが無事に帰って来ることを祈念した人びとが、ぬかずいた祠がきっと有ったに違いない。
賀茂神社には明治初期に行われた合祀制度で、村の各所から集められた境内社が多くある。室の湊がさびれだしたのは、鉄道の開通が最大の要因であろうが、これに並行するように速くて安全な汽船が航行したことも一因と考えられる、この時代の先端技術を駆使した汽船には、もはや日和見の必要が失せたのである。人が登ることが少なくなった日和山の祠は、このころ賀茂神社の境内に移築されたのかもしれない。史料の無いままあえて推論を試みるならば、境内社の一つ橄取社(かじとりしゃ)がそれではないかと思える、由緒も知れず創立さえ不明とされる社の御祭神は、上筒之男、中筒之男、底筒之男の御三神である。面舵いっぱい、取り舵いっぱいの叫び声は、はたして海底の御祭神へ届いたのであろうか。
<播磨地名研究会会員>