しかしこれらによる支出の増大は藩の財政をきびしく悪化させたようである。そこで考えだされたのが綿の栽培で、良質の姫路木綿はその後全国に販路を広げ、窮迫した藩の経済を立て直すまでに成長した。このころ蝦夷のニシンは干鰯(ほしか)という魚肥に仕立てられ、北前船で全国に運ばれた。農産物の飛躍的な収穫量の増大が見込まれた干鰯は、近郊の農村で急激に需要が伸び、各地の湊は活況を呈し全盛の時代を迎えることになるのである。魚肥を扱う廻船問屋は本陣を凌ぐほどの蔵を持ち、滞留した荷物が捌けるときまで蔵敷とよばれる保管料を取る業務をおこない、自前の船には古着や特産の塩などを積んで北国へと商いを続けるのであった。
おだやかな表情を見せる播磨灘も、じつは複雑な海流の動きでおこる潮の急変があり、天候の悪化による自然現象では天気の回復を待つしかない危険いっぱいの航路であった。快晴だからと出船しても行く先が大雨であったり、突風に出会えばたちまち破船して沈没、積み荷はおろか人命までも危険にさらされる、ましてや藩主が乗船する御座船の船頭たちは観天望気に命がけで取り組んだに違いない。
しかし気象は土地の立地条件をもっとも反映するものであるから、優秀な経験を積んだ船頭であっても他国の気象は油断ができない。このため土地の気象に熟知した地元の日和見をする人たちの判断を優先して、航海の安全を見きわめたようである。
室津でも本陣や廻船問屋、それに船宿なども加わって日和見に習熟した人を選び出し、その予報を出港する船に伝えるのも主要な仕事であった。室津本陣の一つで薩摩屋の屋号をもつ高畠家史料に遠見屋加十郎・遠見屋嘉七郎などの屋号が見られるので、このころ設けられた遠見番所で遠見や日和見に従事した人たちがいたと考えられる。
ここで薩摩屋の当主孫九郎が書き残した史料に、日和を検討した文書が見えるので読み下し文で紹介してみよう。
一、御献上物御用に付き、上村久兵衛殿、児玉角兵衛殿、有馬伝右衛門殿、並びに下宰領御両人御登り成され、今月廿一日当津御入舟成され候処、大西風にて昨日迄御見合い成され候へ共、中々播州灘御渡海成り難くに付き、則ち当地日和見之者召し呼び、御来航の船頭立ち会い、日和の儀吟味仕り候処、今廿三日中当灘渡海の天気決して御座無く候、之に依り、今朝卯の刻、当地より摂州大坂迄陸路御揚がり成され候処、紛れ御座無く候、仍って一札くだんの如し
播州室津御問屋
さつまや 孫九郎
宝暦八年寅 十一月廿三日
大坂薩州御蔵屋敷 御手形所