『播磨国風土記』に風をふせぐこと室のごとし、故に名となす、と地名の由来を記されている室津は、向背に迫りくる山影を摺鉢のような湾面に写し、狭小な集落は当時とそう変わってはいない。古い時代から貴人たちの往来で賑わったのも、物流にともなう商人の寄港地として機能しえたのも、自然がもたらした地形の恩恵というべきであろうか。
海には二つの岬がせり出し、一つの岬は賀茂神社が祀られる明神山、もう一つは藻振(もぶ)りの鼻と呼ばれる岬、鼻は端の替え字であろう。この岬には藻振りにちなみ「玉藻かるからかの嶋にあさりするふねしもあれや家おもはざらん」の万葉の歌碑が建っている。二つの岬をつなぐような位置にある日和山は、標高四四メートルの山項にあった燈籠堂跡とともに山の好立地を示し、現存する室津の小字(こあざ)地名である。
室津には室津千軒と囃された繁栄の時代があった。この繁栄をもたらした要因は、近世に始まった参勤交代の制度であり、日本海の湊を経由しながら蝦夷まで運航した北前船(ただしくはベザイ船)の主要な寄港地であったからだといえるだろう。この湊を飛び地として管轄する姫路藩ではお茶屋を設立、参府のため江戸へ向かう朝鮮通信使をはじめ、オランダ・琉球など各国の上級使者たちの宿舎、および饗応接待の場所に充てた。