魚住の泊を例にとると、行基が港の工事を始めると、どこからともなく数百人、数千人の民衆が集まって手伝ったという。港の完成を願って彫った地蔵尊は「御崎の地蔵」と呼ばれ、錫杖を地面に突き刺して掘った井戸のそばには寺院を創設した。ゆかりの寺院は、周辺に十三ヵ寺を数え、上人さんの波止や上人さんの井戸があちこちにある。最近、出された『行基事典』(国書刊行会)では、ゆかりの寺院は兵庫県の百二十一を筆頭に、瀬戸内沿岸に三百三十近くの寺院がある。このうち海ぞいにどれだけあるのか、古い港との関連などを調査するのが、こんごの課題であろう。それによって、瀬戸内を伝って広がった伝承が、その土地に根づいていった過程が解明できるのではないか。
冒頭にも触れたが、播磨は渡来の文化を貧欲に取り込んだ。それは稲作であったり、鉄づくり、陶づくりなどであった。それらは全て瀬戸内を通じて入ってきたのである。入り口となった沿岸地域には、多彩な伝承が残されていった。瀬戸内を太宰府に流されていった菅原道真もそうである。暴風雨に遭ったとき祈ったら止んだとか、休んで食事をしたとか、様々な伝説と天満宮が残されている。これらの伝承の中から、祭りが生まれ、地名が付けられ、風俗が出来上がっていく。瀬戸内を一つの文化圏とした調査や研究が必要になってきたように思えるのである。
<播磨学研究所所長>