◎家船の漁労◎
もちろん、きくのさんに出会った昭和五十年当時は、すでに船所帯の漁民は箱崎にはいなかった。漁船は一五〇隻程度があり、時に遠出をするので船に鍋、釜を乗せてはいるが、すでに全漁船が小さいながらも箱崎に家を持っていた。きくのさんのように、船で生まれた人がいるのはせいぜい戦前までの話で、戦後は全くいなくなっていたのである。
きくのさんの話と人生は実に生き生きとしたものであった。きくのさんは女性ながらも六、七歳のころにはすでに見よう見真似ながら、魚も釣り、八才のころには母親と一緒に沿岸の町や村々で魚を売って歩いたという。現金のこともあれば、魚と芋や野菜を交換することも多かったそうである。そして結婚してからは親から漁船を一隻作ってもらい、親の船を下りて、今度は夫とともに、瀬戸内海の各地に出掛けて漁を行ったという。長崎に出掛けたころはすでに動力船の時代だったが、それより以前の櫓漕ぎの船の時代は淡路島や徳島の方面の漁が面白かったという。伯父に、「播磨の明石にはマテガイがようけおるけ行って来い」
といわれて、片船を組んで行った。片船というのは僚船のことで、家船は一隻で行くことはなく、たいていは親しい人や縁者の漁船と二隻一組になって旅をした。故郷の海を離れての旅漁では、何が起きるかもしれず、不慮の事故に備える意味もあったし、なによりもこころ強かったからでもあろう。
さて、明石に行ってみると、明石は潮の流れが速く、マテガイをつくどころの話ではなかった。当時のマテガイ漁は、縄の先に錘と、その錘に番線の先を鋭く尖らせたマテツキをつけて、船上からマテガイの上に落として貝を殻ごと突き刺してとった。しかし潮流が速いと、縄が流されて上手く貝に刺さらないのである。どうにもならんので、今度は淡路島に渡った。潮の流れのゆるやかな時を見計らって二丁櫓、三丁櫓で押すが、淡路は一向に近こうならん。ほうほうの体で辿りついた時は心身ともに疲れ果てていたという。そして淡路島の周囲を巡ってマテガイを突き、その後は鳴門海峡を越えて徳島に渡った。徳島の堂の浦では箱崎に釣り用のテグス糸を売りに来るスジ船(テグス売りの船)の船頭がいて、その船頭がきくのさんの採るマテガイや魚をさばいてくれた。鳴門公園の下には停泊に良い入江があって、そこで寝泊りして漁を続けたものらしい。
きくのさんの話では箱崎の漁師は一本釣りや延縄(はえなわ)漁を得意とした。それで漁船も小型で、長さ四-五尋のものであったという。ちなみに家船の本家ともいえる三原市能地の船は手繰り網漁を得意とし、六-七尋とやや大型であった。きくのさんが幼少時代に用いられていた櫓漕ぎの家船は、船のオモテ側からカンパ(甲板)、活けの間(生簀)、脇の間、トモの間、カンパ、トコと区切られていた。オモテのカンパの下には夜具がはいっており、夜には子供が寝る間であった。炊飯用の火床はトモの間の下に納め、普段はその上に板を張ってあった。そして櫓漕ぎの船の時代にはおよそ一カ月分ていどの米や麦、イモ、味噌、乾物類を積んで出漁したそうである。