彼女は船の中で生まれ、船の中で育ったという。
「親もこの箱崎の漁師じゃった。私が生まれたんは四国の高松の庵治にマテガイ漁に行っているときでの、船の中で産気づき、船の中で生まれたという話じゃ。箱崎の漁師は皆そうじゃった。船の中で生まれたもんよの。それが普通のことで、誰も不思議に思う者はおらじゃった。それで、両親と一緒に旅から旅で育ったんよ。」
きくのさんは生粋の家船(えぶね)育ちの漁師だったのである。
◎家船の浦々◎
話が前後するが、家船は民俗学風に定義するならば、漁船でもあり、家でもある船のことである。漁船に夫、妻、子供など家族の者全員が乗りこんで、広く瀬戸内海の浦島を漂泊しつつ漁をする、いわば船所帯の漁船ということになろうか。そのような漁業習俗を持っていた漁浦としては、広島県三原市幸崎町能地浦、尾道市吉和浦、豊浜町豊島の宮之浦などがよく知られている。この箱崎浜もその家船の根拠地の一つだったのである。もっとも家船という呼称は学者による造語である。尾道市の吉和港を訪ねた時に、港に係留してある船を見て、あれは家船ですか?と付近にいた吉和の漁師に聞いたところ、「いや、あれは漁船(りょうせん)だ」という答えが返ってきたのである。「家船のはずですが」となおもこだわる私に、「わしらは昔からリョーセンと言うとる」と漁師は強く否定したものである。私も大いに無知だった。以来、家船という呼称を使うことに抵抗を覚えているが、人に説明するのには便利なので、私もまだ家船という言葉を使っている。
船所帯の漁業習俗は瀬戸内だけでなく、かつては九州の長崎県西彼杵郡崎戸町にも見られた。
私がその話を聞いたのは、五島列島福江島の樫ノ浦で出会った大正十四年生れの漁師、福浦市恵さんからだった。福浦さんの祖父は明治二十二、三年頃に、崎戸町から漁に来て、そのまま樫の浦に住み着いたというのである。福江島にはこの他、福浦、大浜にも崎戸の家船漁民が寄留している。
崎戸町の家船は十数隻の船団でカヅラ網というタイの追い込み網漁業を行っていたが、その漁船にはやはり瀬戸内の家船同様に家族全員が乗り込んでいたのだ。そしてこの漁では夫は網を操作し、妻はもっぱら櫓を押したという。獲った魚は各船で平等に分け、妻たちがめいめいに売り歩いた。崎戸町の家船では、女の働きが大きく、苦労をしたものらしい。子供を背負ったまま櫓も押せば炊事、洗濯もし、魚の行商にも出て、休む暇がなかったという。
家船の説明が長くなったが、要するに箱崎は、かつてはそうした家船漁民の瀬戸内海での故郷の一つであり、箱崎きくのさんは、その末裔だったわけだ。