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漁は同じ箱崎の漁師でも人により異なった。が中心は手釣りと延縄で、手釣りではタイ、チヌ、スズキ、アジ、サバなどを釣り、延縄ではタイ、ハモ、アナゴ、カレイなどを釣ることが多かった。中でもハモ縄、アナゴ縄を行う漁師が多かったそうだ。タイは春先から秋にかけて釣り、タイの釣りにくい冬にはマテガイ突きを行った。きくのさんが生まれたという香川県の庵治は、そのマテガイの多い海であったという。

漁には正月の七日が済むと出かけたものらしい。どこと決まっておらず、それぞれの好みの海に出かけ、盆の前になると箱崎に帰ってきた。そして盆が終るとまた出漁し、十一月三日の箱崎の蛭子神社の祭りの前に帰ってきた。蛭子祭りは盛大華麗で、各家船も蛭子神社の幟をたてて、それは賑やかなものであったという。蛭子祭りの後は出漁といっても近場の漁場で、出掛けるのも一潮(十五日)程度で、主にマテガイを突いて回る船が多かったという。奔放気ままに見える家船の人達も、盆や正月、祭りの日には故郷の港に帰ってきていたのである。普段は他所の島々や海上に暮らしているだけに、故郷の港と陸地、仲間たちへの思いは強いものがあったのであろう。

きくのさんに聞いた家船の漁労の話はだいたい以上のような内容であった。

 

◎能地の家船◎

きくのさんの住む箱崎浜は宝暦五年(一七五五)年の頃は、十七軒ほどの漁業集落であったという。それが、明治十四年(一八八一)の頃には、専業漁業者二二五人が記録されている(『家船民俗資料緊急報告書』)。そして明治末頃、きくのさんが生まれた頃には漁家戸数百数十軒、漁船数二百数十隻になっていたという。だから、箱崎で家船が増えてきたのは明治前後頃のことだろう。分家用の家を建てる土地が少なかったので、船に住む漁民が増えてきたのである。実際、きくのさんの娘や親の時代には、分家と言えば、親に漁船をつくって貰って住むことが普通であったそうだ。船住いでも分家として戸籍上も一家をなしたと認められたそうである。

この箱崎よりよりずっと古くから家船漁業を行い、もっとも家船が多く活力もあったのは、実は三原市の能地浦であったようである。中世の頃の能地浦には七軒の漁家があり、それが能地の家船の本家筋だと伝えられている。能地の漁家は中世にはこの地方を支配した小早川家の水軍の水主を務めた功績で、水軍の支配する海域にはすべて漁場とすることができ、どこに行っても優先的に漁ができたそうだ。江戸時代には戸数も増え、天保四年(一八三三)には家を持つ者が六四六人、船住いの者は二〇五二人と記録されているから、一隻の船に五人家族が乗っていたと仮定してすると、おおよそ四一〇隻程度の家船が能地にいたことになる。

能地の家船は箱崎の家船と異なり、手繰り網や打たせ網など網漁が中心だった。手繰り網は小網ともいうが、約四尋ほどの袋状態の網に両側に八尋の引縄がついた小網である。手繰り網は家族単位で漁をする家船には実に手ごろな網であった。網を入れる時には、引縄の片側に浮き樽と錨をつけて海に入れ、つぎに櫓を押して半円形を描くように船を回して網をいれ、最初の樽を入れたところに戻り、その引縄を取りあげ、それから船のオモテとトモからそれぞれの引縄を引いて網を上げるのである。この小網で、メバルやカレイ、アナゴ、タナゴ、エビなどの魚介が取れた。そしてもっぱら夜の漁であった。魚は夜は活動を停止して藻の中で眠る。手繰り網とは言え、網を人力で引くには時間がかかる。魚の活動の鈍い夜の方が漁はやりやすかったのである。

そして夜が明けるころには漁を止め、近くの島の湊に船を止めて休息した。その間に娘や妻は陸に上がり、取った魚を売って歩いたのである。こういう行商を能地ではカベリと言った。魚をいれたハンボウ(桶)を、頭にカベッテ(乗せて)売り歩いたからである。

 

 

 

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