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◎椀船◎

北前船が最盛期を迎えた近世末期ころから、小型船舶を駆使して行うユニークな商業活動が瀬戸内の各地で見られはじめる。たとえば、伊予国の島嶼部に位置する椋名(むくな)(愛媛県吉海町)や沿岸部の桜井(今治市)では、椀舟(わんぶね)とよばれる小型船舶を使っての漆器行商が始まった。いっぽう、同じ伊予国の沿岸部には菊間(菊間町)の瓦船がある。この地域は、藩政時代から瓦の特産地として知られているところであるが、そこで生産された瓦は、瓦船とよばれる木造の帆船によって内海各地へ輸送された。

防予諸島の中島(愛媛県中島町)では牛船が生まれた。古く忽那島と呼ばれたこの島では古代以来牛馬の飼育がさかんであったが、特に藩政期には、廐肥を利用したしょうが栽培と結びついて牛の飼育がさかんになり、島で飼育された牛は、明治期には牛船と呼ばれた七〜八○石積の船で各地へ運ばれた。同じ防予諸島の睦月(むづき)、野忽那(のぐつな)両島では縞売りと呼ばれる、反物を中心にした行商活動が知られている。行商のきっかけは、幕末から明治初期に、沖合で潮待ちする船舶に野菜・薪炭などとともに島で生産される反物を供給したことだといわれているが、やがて小型の和船で沿岸の島々をまわるようになった。さらにのちには島内産の反物では足りないので、松山で伊予絣を、尾道、福山で備後絣を仕入れて販路を拡大していったといわれる。

これらの特異な商業活動の発生地を見てすぐに気がつくことは、それらがいずれもかつては、海賊衆が活発に活動した地域であるということである。椋名・桜井・菊間は芸予諸島の海賊衆として知られる村上氏と縁の深いところであるし、中島(忽那島)・睦月島・野忽那島はかつて南朝方水軍として活躍した忽那一族の本拠であったところである。

このように見てみると、芸予諸島海域で船舶を利用した特異な商業活動が次々と生れてきたのは決して偶然ではないように思われる。それらの地域では中世の海賊衆の心性が水面下で生き続けていたのであろうか。それはともかく、ここでは、上記の諸活動のなかで最も大規模で、後世への影響も大きかった今治市桜井の椀舟に焦点をあわせ、近藤福太郎氏、本宮健二郎氏の研究成果に依拠しつつ、その活動の跡をもう少し詳しくたどってみることにする(近藤『伊予桜井漆器の研究』、本宮「愛媛県史地誌II(東予西部)』のうち今治市の項)。

桜井地方の椀舟による漆器行商の創始時期は必ずしも定かではないが、同地方に残っている古文書や金石文などによると、江戸時代も後半の一九世紀前半ごろからであろうといわれている。椀舟商人たちが最初に扱ったのは、紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器であったが、やがてそれに肥前の伊万里、唐津などの陶磁器が加わった。桜井地方には今も「春は唐津、秋は漆器」という俚諺が残っているが、これは、肥前の伊万里や唐津で仕入れた陶器を春に中国・上方地方で販売し、帰りに紀州黒江で漆器を仕入れ、秋にこれを九州・中国で販売するという行商形態を伝えるものといわれている。このように陶器と漆器の両方を扱う時代がしばらく続いたが、明治中期以降は、漆器専門行商に傾斜していった。それは、重くて破損しやすい陶器よりも漆器の方が行商に好都合であることにもよるが、同時に後述するように地元桜井で漆器生産が行われるようになったこと、遠く加賀・越前・能登輪島などへ仕入れ圏が拡大したことなどによると思われる。

椀舟として使用された船は二〇〜五〇石積の帆船が中心で、一船の乗組員は六〜七人から一〇人くらいまでである。椀舟に乗込んだのは、船頭のほかに行商資本家としての「親方」、販売員としての「売子」たちである。初期には「親方」が船頭を兼ねる「船持親方」が多かったが、明治後期からは両者が分離し、「借船親方」が中心になった。「親方」は商品である漆器を仕入れ、行商地の港につくと、商品を「売子」に渡して販売に出させた。最初は「親方」自身も販売に出たが、のちには、商品の管理、「売子」への荷渡しに専念するようになったようである。

 

 

 

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