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また、初期には椀舟そのものが行商の拠点で、そこに寝泊りするのが普通であったが、後には「親方」たちは、有望な地域に拠点を定めてそこに店舗を構え、問屋化するようにもなった。「売子」は、形式上は「親方」と雇用関係を結ぶが、関係は信用本位で、「親方」に見込まれさえすればだれでも椀舟に乗込むことができた。賃金は販売量に応じた歩合制の場合と、「売子」があらかじめ商品原価の何%かを「親方」に納めてあとは独立採算とする場合があった。いずれにせよ、「売子」は腕次第で利潤をいくらでも稼ぐことができたわけで、「売子」の中から「親方」に成長する者も少なくなかった。

桜井地方出身の「親方」と「売子」が乗込み、紀州黒江、地元桜井、遠く越前や能登輪島などで仕入れた漆器を積込んだ椀舟は、西へ西へとすすみ、次第に販路を拡大していった。最初は、愛媛県の宇和島地方、広島県、山口県などの中国地方西部が中心であったが、行商の中心は次第に九州へ移っていった。

椀舟の全盛期は明治時代の前半であるといわれる。明治時代も後半になって、鉄道やトラックなどの陸上輸送機関が発達し、海上においても船会社の海運事業がさかんになってくると、行商人たちも従来の帆船=椀舟にかわってこれらの輸送手段を次第に利用するようになるのである。明治の末期から大正期にかけて椀舟の数は減少したが、漆器行商そのものは拡大の一途をたどり、第一次大戦後の好況時がその最盛期であろうといわれている。そのころには、「親方」、「売子」を含めて四○○余名もの人々が漆器行商に従事していたといわれている。

 

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伊万里の「陶器屋仲間」が桜井の綱敷天満宮の境内にたてた常夜燈。伊万里は椀舟の商品の仕入れ先であり、両者の密接な交流をうかがわせる。

 

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かつて椀舟の基地として栄えた桜井の港

 

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椀舟の商品として発達した桜井漆器

 

昭和にはいって生活様式が変化するにともない、漆器行商そのものは衰退していったが、椀舟は、その後の桜井地方に大きな財産を残した。それは、漆器製造業と近代的月賦販売組織である。桜井漆器誕生の事情は伝承の域を出ないが、一八三二年(天保三)、紀州藩の支藩である伊予西条藩から指物師・塗師を招いて「櫛指」の重箱を作らせたのが、桜井漆器の製造を本格化させるきっかけとなったといわれる。いずれにせよ、おりから活発化しつつあった椀舟行商と結びついて漆器製造業が発展していったことはまちがいない。これ以後漆器製造業は桜井地方の重要な地場産業として成長していくことになる。

いっぽう月賦販売の創業も、漆器行商の販売と密接なつながりがある。漆器は高価な什器であるから、消費者にとって分割払は魅力ある支払い形式である。そこで桜井地方の漆器行商人たちも販売を促進するためにさまざまな分割払の方法を工夫した。はじめは、輪島にならって講方式を導入したが、うまくいかず、明治三十年代後半に新たに導入したのが月賦販売方式である。その後この商法は、第二次大戦後装いを新たにして復活し、月賦百貨店として近代化に成功し、現在に至っている。

<愛媛県総合教育センター所員>

 

 

 

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