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もし有史以前からだとすると、東南アジアなどに漂海民はまだまだいますから、そいう流れが二千年以上も前からこの列島に入ってきたのかということですね。

もう一つの説の可能性が高いと私はみていますが、はっきりした資料の裏付けはありません。瀬戸内に大量に家船が発生したのは、近世初頭からではないかと私は考えています。村上水軍が織豊政権に徹底的に抵抗します。それで秀吉が「海賊停止令」を発令した。これは「刀狩り」と同じ日なんですね。それで朝鮮侵略に協力した海民は水主浦(かこうら)に住むことが許された。水主浦とは、役が課せられて、平民(百姓)に取りたてられ漁業権が認められた人たちが住む村です。

 

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内浦の漁師たちの家並み

 

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内浦の共同井戸

 

しかし豊臣政権、朝鮮侵略に協力しなかった人たちは、一軒前の漁業権が認められなかった。漁民のほとんどは浄土真宗の門徒で一向一揆に参加していましたから、織田、豊臣側には付かない。そういう人たちには漁業権が与えられなかった。だから家船漁民や被差別部落民になっていったのではないかと思います。瀬戸内の被差別部落には、村上水軍の末裔を名乗る所が多いのです。

谷川…朝鮮侵略では、名護屋が拠点となりました。そこは呼子にすぐ近くです。家船が朝鮮侵略にかなり協力した可能性が大きいと思っています。大村藩の『郷村記』を読むと瀬戸や崎戸や蛎浦に百艘以上の家船がいたとある。それを指揮統制する酋長もいる。松浦党も壇ノ浦に三〇〇艘駆けつけている。北松浦郡は後の家船の拠点です。家船と水軍の密接な関係があります。

沖浦…秀吉が全国を制覇してから、水軍の幹部クラスだった海武士は「船方(ふなかた)」として各藩に取りたてられる。村上水軍の中でも徹底的に織田・豊臣政権に抵抗した村上武吉は、毛利氏の船方なる。最後は四〇人ほどしか残らなかったといわれています。二、三万人はいたと推定される村上水軍は、日頃は漁民として生活していました。上の海武士たちはこのように船方として雇われていくチャンスがあったのですが、下部の漁民たちはどこにも雇われなかった。結局、漁業権もないままに沖合いを漂泊して漁をやる家船になるしかなかったのではないかと考えています。部落民も海村に住みながら、漁業権は持っていなかった。

 

 

 

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