日本財団 図書館


◎家船の発生と民俗◎

谷川…私どもは大崎下島から橋を渡り豊島に行きました。そして内浦で最後の家船に会いました。

沖浦…たまたまでした。一九七〇年に広島県が家船民俗の緊急調査を行っている。(広島県教青委員会『家船民俗資料緊急調査報告書』同会編1970)能地と二窓の人たちがいつごろからどこへ出て行ったか、そこでどのように暮らしていたかという民俗調査です。瀬戸内海には約六〇〇の被差別部落があるのですが、家船の人はほとんどがその傍に入ってきている。というのは、素性のよく分からぬ外来者を、一般の町民や農民は受け付けません。正体も分からない漂海民が入って来て居着かれたらどうなるかというわけですね。それで受け入れてくれたのが自分たちも差別を受けて、底辺から世の中を見て人情も厚い部落の人たちだった。部落のすぐそばに家船が住むようになったという事実は、河岡武春さんが前から指摘していたことです。(『海の民』平凡社1987)

家船の人たちは、陸上がりした場合でも、村の宮座から除外されていまして、氏子にされない。漁業権もなく難渋していました。さすがに戦後は、そういう問題はなくなりましたが………。

一家が船に乗って漂泊するのですから、生まれるのも死ぬのも、結婚式も船の上です。維新後でも、まだかなりの家船がいました。船の中に畳の部屋を作り、二カ月から半年の間あちこちの海を漂泊して漁をやり、女房がその魚をハンボウに入れて翌朝売り歩きます。戦後、子供だけでも学校に通わせるために、行政は学寮を作り、船から下ろすようになりました。現在は地先海面の沖合漁が主力になっていますので、その学寮もほとんど閉鎖になりました。

 

017-1.gif

豊浜町内浦の港で見かけた家船。畳を干していた

 

家船で何ヵ月も漂泊する人もいなくなりましたから。昨日見学した豊浜に一ヵ所だけ残っていますが、家船の子供は少なくなっています。最盛期には、漁師の子は数十人いました。学寮の設置目的は長期漁業者の子供の教育に当たると明記してあります。

谷川…たまたま内浦で会った家船は、朝早く九州へ出かけたと、気楽に話していましたね。

沖浦…すぐ隣の村にでも行くような感じでしたね。

谷川…九州の行き先にカタフネがいるんですよ。カタフネはカタリフネ、つまり僚船のことです。カタルというのは九州で参加することをいうのです。向こうは向こうで協力する漁民の船がいるんです。臼杵はアマベです。伊予の河野とつながりがある緒方、佐伯氏、などと関わりのある人びとです。豊島の家船は五島の中通島青方まで行っている。家船の存在は小さいですが、行動範囲はとても広いです。能地で聞きましたが、そこの家船は呼子まで行っている。そのあたりの交流は昔から関係が深かったでしょう。瀬戸内で枝村を作りながら、水軍としての役割も果たしていた。家船は敵船に近づいていき、海に飛び込み敵船の底に穴を空ける。潜水が上手なんです。

沖浦…彼らは自分だけの一艘では動きませんね。かならず二、三艘以上で動きます。大村藩からもいろんな免許をもらっているんですね。

谷川…免状をもらっているのは、大村の殿様が有馬氏に追われて、呼子のすぐ北にある加唐島に逃げた。その時の家船の連中は、食物を持っていって大村の殿様をもてなしたという話があります。

沖浦…日本の家船民俗は、九州西岸と瀬戸内の二ヵ所しかない。その起源について羽原又吉が『漂海民』(岩波新書1963)で指摘していますが、有史以前からの存在説と戦国時代以降の発生説の二説あるわけです。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION