日本財団 図書館


すぐ後ろの平家谷にも住んでいたのです。もう一つは秀吉の「海賊停止令」によって徹底的に弾圧された村上水軍の末裔説ですね。瀬戸内をはじめ、九州・四国・山陽のあちこちに平家落人伝承がありますが、歴史資料も残っておらずあまり信憑性はありません。

だけど村上水軍説は確実でしょう。村上水軍は能島・来島・因の島の三つに分かれていて村上三島水軍と呼ばれていましたが、平の浦に住み着いたのは、地縁的にみても因島水軍系ですね。水軍資料でも因島(いんとう)水軍系は秀吉の海賊停止令(かいぞくちょうじれい)で鞆の方へばらばらに散っていったと書かれています。

谷川…鞆で聞いたことがありますが、尊氏が西へ敗走する時、鞆や尾道の吉和(よしわ)の漁民たちが、水先案内をして手助けして送って行った。そして九州から帰ってくる時は、吉和や鞆の漁民に大歓迎を受けたそうです。だから軍隊が動く場合、海民、漁民、水軍に頼っていくのですね。

沖浦…鞆は日本最古の港町の一つで、有史以前から開けていまして、地形も港に適した。鞆の町方は、海上交易で儲け、舟釘を作る鍛冶が盛んでした。遊女町も栄えました。元禄年間で七千人の人口を擁した大きい港町です。

ところがすぐそばにあった平の浦は小さな漁村でしょ。古老に聞きますと漁村ということで町方よりずっと下に見られていました。大正年間に発行された『沼隈郡史』を読みますと、平の漁村は「柄が悪く」て、「平言葉」をしゃべっている、だから近づくなと書いてある。貧しいのでコメも食えんから「平の薯食い」と町方から軽蔑された。まあ、あらん限りの悪口が書かれているんですね。

海の民の生活は実際に貧しかった。その日暮らしですね。生活レベルが町方と浦方は全然違う。広島県は農村部を地方(じかた)といい、福山とか広島、尾道や鞆は町方です。漁師たちが住んでいた島々は浦方です。「地方」、「町方」、「浦方」と三つのカテゴリーに分かれましてね、藩の支配のやり方も違います。こういう分類法が近世史の支配形態だったわけですね。

 

◎江戸時代の新興港町・御手洗◎

谷川…二日目は沖浦さんに大長(おおちょう)や御手洗(みたらい)を中心に大崎下島をご案内頂きました。

沖浦…あそこは四〇年前に一度訪れられたことがあるそうですね。思い出を少し語って見てください。

谷川…一九五六年だったと思います。ちょうど私が平凡社に勤めていた頃、風土記日本を編纂していました。

御手洗の木村屋旅館に泊まっていました。そこでご主人からいろいろ話をお伺いしました。夕方散歩に出ると、海岸の通りに遊郭が並んでいましたが、赤線廃止令のあとで誰もいませんでした。ただ軒の下にぶら下げるランタンだけが残っていました。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION