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現在の小坂浦の集落。左が牛島、右遠方が丸亀

 

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小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓

 

人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も占有していました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできませんでした。それほど人名の独裁制が維持されていたわけですね。

そのような人名制を認めていた幕府は、六五〇人分の傭船を言いつけてくる権限を持っていたわけですね。幕末の動乱期ですが、幕府が長州遠征のために傭船を命じてきた。そのころの塩飽は交易船も数が少なくなって船方も少なくなり、また船大工や水夫も島外に出ていった人が多かった。六五〇人分の傭船を出せない現状だったのです。幕府も不安定で長州まで出兵することそのものが危険で、皆嫌がって尻込みした。それで、小坂の漁民に頼んで長州までに行ってもらった。

ところが勤めを終え帰ってきた小坂の漁民に対して人名はまだ威張って、誠意を見せない。つまり、うまく弾丸除けに使われたわけですね。それでとうとう日頃の憤懣が爆発して人名勢を襲撃した。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちした。

小坂の歴史を調べましたらね、能地(のうじ)系の家船(えぶね)の出村ですね。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っています。だから日頃から差別を受けていたのではないかと思われます。古文書では「間人(まおと)」と呼ばれていた。良民と賤民の間にある身分という意味ですね。それが爆発しまして一揆的行動に出たわけですね。人名側は翌日小坂浦を焼討し、約三〇〇戸の全村が焼き払われ漁民はみな命からがら船で逃げ延びました。しかし、逃げ遅れた男一五人と女三人の一八人は犠牲になった。この事作を小坂騒動といいます。小坂浦の墓に一八人の名前が彫られた碑が残っています。

谷川…その碑も人名の供養塔と比べると格段の差がありました。本当に小さな碑でしたね。人名と小坂浦の漁民の関係をよく表わしていると思いました。

沖浦…ちょうどそのころ、土佐の海援隊が丸亀にいまして、対岸に火の手が上がったのを見て駆けつけた。両方の申し開きを聞いて、小坂浦の言い分に利があると判断して、村の再建を応援したんです。このあまり知られていなかった秘史を角田直一さんが本にしまして、一般に知られる所となった。小坂浦の背後の小さな丘に法然ゆかりの阿弥陀堂がありましたが、法然は笠島に上陸して本島に一週間ほどいました。

 

 

 

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