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その時塩飽水軍は、次の時代は信長、秀吉であると判断したんですね。ところが村上水軍は反信長の毛利側に付いたんですね。彼らは熱心な浄土真宗の門徒だったということも関係しています。毛利や小早川氏とは厳島の戦い以来の義理もあって……。ただ来島水軍だけが寝返って中央政権の側に入ります。

 

◎人名制度による支配と差別◎

沖浦…ちょっと話が前後しますが、一向一揆の最終段階、浄土真宗本願寺の門徒が大坂石山本願寺に一〇万で立てこもります。それを信長軍一〇万が、一五七〇から八○年まで一〇年間包囲します。本願寺に依頼されて毛利氏は援軍を出すのですが、一番有力な救援軍は村上水軍だった。塩飽水軍はその際には織田方になっていました。それで信長からお墨付きをもらうようになりました。

谷川…朱印状が石櫃の中に大事にしまってありました。

沖浦…信長が本能寺で亡くなりまして秀吉に引き継がれます。塩飽水軍は秀吉の時代にいちばん活躍しました。小田原攻め、四国攻め、薩摩攻め、朝鮮出兵です。秀吉の朱印状によって、塩飽の六五〇人分として一二五○石が認められたのです。六五〇人が人名(にんみょう)です。「人名」とは、大名、小名のように武士が支配する領地ではなくて、一般の平民が領地を持つことです。このような人名制は、全国でも希有な例です。秀吉が没した関ヶ原後も、家康によって引き続き朱印状で塩飽の人名の領地を安堵されたのです。

谷川…人名のお墓のような供養塔のようなものが、オベリスクのように建っていましたね。

 

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専称寺にある人名株を持つ年寄たちの供養塔

 

人名制が確保されていたのですが、幕藩体制が緩んでくると、人名でない人々が自分たちも人名制の恩恵にあずかりたいということで、運動を起こして弾圧された事件があったということを聞いています。

沖浦…小坂騒動といいます。これまでずっと知られていなかったのですが、明治元年に起こった事件で一八人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。塩飽諸島全体で六五〇の人名株がありました。江戸時代最盛期では、本島だけで人口四〇〇〇人といいますから、当然人名から外されている人が多いわけです。人名株を持っている人は、庄屋クラスとか牛島の丸尾家や与島の岡島家のように大きな船で儲けた人たちです。

純漁村だった小坂浦は、耕地が少なく人名株も持っていませんでした。株を持たない民衆というのは非常に貧しかったのではないでしょうか。本島には被差別地区も一つありますし、漁村の小坂浦は三〇〇軒くらいで、人口は一〇〇〇人以上いたのです。人名株から外され細細と漁業を営んでいた。

 

 

 

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