日本財団 図書館


だから瀬戸内は潮の流れがひじょうに重要だということになります。

沖浦…潮の流れを知らないと操船できません。六時間ごとに変化しますから。またいたるところに瀬がありますし、岩礁があり、潮流は急変します。水先案内がいなければうまく通行できなかった。壇の浦の戦いで源氏が勝利したのも、地元の海民を味方につけて、潮の変転する時を知っていたからですね。

谷川…漁村に行くとみんな潮の満ち引きの時刻や風の向きを知っています。漁師はもちろんのことタバコ屋のお婆さんでも知っているんです。紀伊水道から入る潮は塩飽諸島の西側にある仙酔島と粟島の間の線までは、東から西へ潮が流れていく。豊後水道から入った潮は西から東へと行く。それがぶつかるのが仙酔島、鞆の沖です。瀬戸内の西と東を潮の流れの方向で分けることができるかもしれない。

ところで、塩飽水軍は信長や家康の輩下につきますね。朝鮮出兵の時も名護屋城に出向いています。塩飽の熟練した操船技術が高く評価され、勝海舟が咸臨丸でアメリカに行く時も塩飽の水夫を乗船させた。

沖浦…五〇人中三五人が塩飽の出身です。

谷川…塩飽の水夫は和船操作の技術は熟練しているが、洋船操作の技術が分からない。しかし洋船技術を習得するのが早かったのではないだろうか。塩飽の水夫が長崎の海軍伝習所に行って洋船の操作を習得しているんです。

 

007-1.gif

真宗門徒の水軍勢が一向一揆参戦に際してひるがえした軍旗

 

沖浦…日本の職人の腕前のすごさを物語る有名なエピソードがあります。船大工と船鍛冶です。幕末のころ伊予の伊達家、これは仙台の伊達家の分家ですが、この一〇万石の宇和島藩に海洋志向派の殿様がいまして、黒船を見て「ぜひうちの藩でも洋船を作りたい」という。それで誰に作らせたかというと、長屋に住む腕のいい傘貼り職人を長崎へ派遣して見学させた。それで設計図一枚でとうとう本物を作らせてしまう。だから江戸時代の職人の腕前は、どの職種にしてもすごく優れていたのではないかと思いますよ。そういう職人技術が、明治維新以降の日本の産業技術発展の下支えにあったんですね。

沖浦…海民資料はあまり残っていませんので、古代のころの塩飽海民の実状はよく分かりません。中世になると塩飽を名乗る北条氏の被官が出てきますが、その系譜が塩飽の出身じゃないかといわれています。明の時代の勘合貿易でも塩飽船が活躍しています。現在の神戸市の西部にあたる兵庫の港に入った船の関税帳が残っていまして、そこに塩飽船がかなり書かれています。このように室町期には塩飽船はそうとう活躍しています。

芸予諸島では、河野氏の傘下にあった村上水軍が進出していました。因島・能島・来島を拠点とする村上三島水軍のなかでも海賊総大将と呼ばれた能島の村上武吉が総帥で、一六世紀中ごろには塩飽に出入りしていた記録があります。だから、塩飽はその頃、能島村上氏の直接影響下にあったのではないでしょうか。織田信長が戦国動乱を統一する段階になってきますと、それぞれの水軍は地元の戦国大名に抱えられていましたが、中央の動きを見据えて出拠進退をどうするか政治的選択に迫られました。

 

007-2.gif

小坂浦の近くの町並み

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION