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御柱神事の循環構造[山作衆と八龍神社氏子衆の役目の意義]……原直正

 

七年毎に巡ってくる寅と申の年、全国諏訪神社の総本社が鎮座する諏訪盆地は、年内祭り一色となる。この祭りは、山で伐採した巨木を諏訪湖の南北に鎮座する諏訪神社上社(本宮・前宮)と、下社(春宮・秋宮)の四つの社に曳き付け、その四隅に建てるもので、建てられた柱を「おんばしら(御柱)」と呼んでいる。御柱は、六年の歳月風雪に耐え、次回の御柱の祭りに休める。「やすめ」とは御柱を倒し、撤去することをいう。そして再びその場所には真新しい御柱が建てられる、という事が繰り返されるのである。

御柱の起源については、神の降臨する柱、神域の表示、あるいは四方を守護する四神説、その他様々な説があり、定説はない。最近では、縄文時代の巨木遺構に、諏訪の御柱の起源を求める説もでている。

この祭り、曾ては、信濃国一国の貢税をもって御柱を建て、また宝殿及び・鳥居・玉垣その他の建物の式年造営が行われたが、江戸時代以降は、御柱と宝殿の建て替えのみとなり、奉仕も現在では諏訪郡内の氏子の人々により行われている。

祭りは、四月(古くは、寅年の寅の日、申年は、申の日よりおこなわれた)、山から里へ向けて御柱を曳き出す「山出(やまだ)し祭(さい)」と、「御柱屋敷」と呼ばれる御柱専用の安置場所にひとまず留めおいた御柱を、社の四隅に曳き建てる、五月(寅または、申日を初日とする)の「里曳(さとび)き祭(さい)」に大別されているが、それに先立ち、まず御柱御用材を見立てることからすでにこの祭りは始まっている。現在上社では、諏訪平の東端に位置する八ヶ岳連峰、阿弥陀岳の中腹の「御小屋(おこや)山(さん)」(下社は北方の霧ヶ峰山麓東俣(ひがしまた))において、寅または申年の前年(下社は二年前)に本見立(ほんみたて)が行われているが、本来の方式は、御柱祭の終了後、その年内に次の式年の御柱用材を見立ててこれに「おね鎌」と言う神器を打ち付けていた。当年三月にこれを伐採するが、古い記録によれば、正月または二月の寅(申)日にはこれを伐採している。これらの祭事の他、二月半ばには、曳行する御柱の担当地区を決定する抽選式(上社のみ)が行われ、より太い柱をと願う人々の熱気が境内に充満する。それが決まればその後各地区では、それぞれ担当する御柱に対応できる強さをもつ曳き綱を作る「綱打ち」等の作業が奉仕される。曳行の時必ず唄われる「木遣り」の練習も老若男女を問わず行われるのである。これらの奉仕に対する各地区の準備は前年にもすでに始まっているのであり、諏訪の人々の血は徐々にさわぎだすのだ。(図1])

 

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図1]御柱曳行ルート図(「御柱とともに」諏訪博物館より)

 

 

 

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