見立と伐採が行なわれた御小屋山(背景)と曳行される御柱
山作の起源は明らかではないが、その名称の現れている最古の記録は天正六年(一五七八)の造営帳に「山作・原衆」、又は「原之山作」とある。
先述の御柱御用材の選定に始まる一連の奉仕のなかで、この一団は主要な役目を負って終始御柱と行動を共にしている。その仕事の主なものをあげてみると、御柱木を調達する御小屋山の監視の任務と、その山に鎮座する「御小屋明神(祭神建御名方命)」への奉仕、御柱の見立てとその伐採、そして五月の上社里曳き祭初日においては、「御船(おふね)」を担ぎ、「朱塗りの神斧(かみおの)」とともに御柱屋敷から曳き出された御柱を迎えに行き、本宮まで先導する。「御船」は現在は本宮で作られるが、本来は神之原の七社明神社において、これも御小屋山で取った小枝で船形を造り幕を張る。そこから神斧と共に出立し、里曳きの御柱を先導して来たのである。