日本財団 図書館


その後クバン県は私の取材ポイントとして重要な位置を占めることになった。

当時、県レベルの人民委員会の指導部は、戦争中の軍の指揮官がそのまま民政の指導部になることが多かった。クバン県人民委員会の委員長もいかにも前線の軍人といった風で、朴訥な人柄で、伝統文化なるものを口にする私を半ばあきれ顔で眺めていた。二十歳そこそこで人民軍に志願して以来ずっとジャングルで戦ってきた人である。しかも、良くも悪くも小中華の優越意識をもっているキン人である。そこにこの地の先住民のありようは文化程度の遅れた人々で、そこに文化を見い出すなど考えられもしなかったようだ。しかも、戦争が終決して一〇年を過ぎようとしているのに、経済建設は遅々として進まず「それもこれも、褌姿で歩き回る原住民が遅れているからだ」と的外れな苛立ちが広がっていた。とある県では民族衣裳である褌を遅れた文化の象徴として化繊のパンツと交換し、焼いてしまったという話を自慢げに聞かされたこともあったほどで、先住民の文化とは天下が変わっても数を頼みにする人間集団の前には、全く悲しい運命にさらされるものだとため息がでたものである。もちろん現在は違う。観光資源なる概念が入るや行政は、手のひらを返したように猫も杓子も民族文化の保存を口にするが、当時はそうではなかった。そんな風潮があるなか、褌を世界的に稀に見る立派な織物であると誉め讃え、民家に泊まり込んではあれこれと質問し、酒を飲んでは肩組み合って歌いだす外国人は迷惑以外のなにものでもなかったに違いない。それでもクバン県の委員長は例外的に協力的で、自らジープに乗り、かなり奥地の村まで案内してくれたり、立派な墓があるとの情報を聞き付けると、部下に案内させたりで、大変好意的に接してくれた。そして、その好意のなかで最も有り難かったのは三回にわたって「水牛供犠」の儀式に参加させてもらったことである。

クバン県は海岸の都市クィーニヨンからプレイクーに至る国道の中間の街、アンケの北側に位置しており、その大部分は原始の密林に覆われている。戦争中はいわゆる開放区に位置し、ここに居住するバナ人は、抗仏戦以来の反植民地闘争の英雄ヌップさんの出身民族としても有名な集団である。

都市に隣接するグループの多くが早くからカトリックに改宗したり、「戦略村」で独自の文化的要素を失ったのに比べ、当時のクバン県のバナ人たちは、染めや織り、宗教儀式など最も喪失しやすい伝統的文化をかなり原型のまま保ち続けていた。あえて当時としたのはこの一〇数年で環境は劇的に変化し、いまは大規模な森林伐採とプランテーション開発にさらされているからである。

 

◎水牛供犠◎

ところで、「水牛供犠」の儀式とはどのようなものだろうか。実はこの儀式は一つの目的で行なわれるのではない。何か神の力を借りなければならないことが生じたとき、その事の大小によって、願いがかなった時お礼として神に何を犠牲にするかを約束することから始まる。これらの願かけはドップと呼ばれるシャーマンのもとで行なわれ、個人の場合は多くが病気治癒の願いで、その病気の度合いによって犠牲の種類は鶏、豚、牛、水牛とランク分けされている。鶏の供犠は日常的に行なわれるが、神聖な生きものとされる水牛となると、儀式もそれなりの格式が要求され、主催する家族としては大変な出費を伴うことになる。中部高原の人々は焼畑による稲作と同時に、たくさんの水牛を飼っている。日々の生活のなかでは、畑仕事より何倍も水牛や牛の世話に時間を費やしているのではないかと思われるほど大切にしているのである。現在では換金性の高い牛に変わってきているが、何れにしろ彼らの財産の中心的存在である。なにせ物の価値を語るとき「これは牛何頭の価値がある」といった表現をつかうほどである。ついでながら彼らの財産を紹介すると、牛の他に青銅のゴングのセット、そして酒の壺となる。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION