飯島吉晴が指摘したように(注9])、柳田国男も「比等各地の柱は、単に柱が松明又は旗や御幣を高く掲げるだけの目的で無かったことを示すのみならず……結界占地を表象していた……」と言っている。
柱建ての儀礼にはまた、古代インドの思考が潜んで居るように見える。『アタルヴァ・ヴェーダ』(注10])には「天地両界と空界と六方位を支える支柱・スカンバ」の讃歌が記されている。「その中に人がもろもろの世界と、宝蔵と、水と、ブラフマンとを知り、その中に無と有を含む」とも言われ、頭と目と四肢、口、舌、乳房、毛髪に関して言及されている。その姿は、まさにビスケート祭の「柱の神」を髣髴とさせる。
バクタプルには中世マッラ王朝期に北インドからのバラモンが移住しており、こうしたヴェーダ的な観念をこめた祭儀を始めたという可能性も考えられる。
天を支えるという観念は、インドラ神に関しても見出される。『リグ・ヴェーダ』(注11])では、水を閉じこめた蛇形の悪魔ヴリトラを殺りくする時、「〔天を〕支えんがために」ヴァジュラ(金剛杵)をふりかざす。柱はその金剛杵でもあるのだ。
このようにネパールの柱建ては、その形態においても意味においても、多彩な様相を呈していることが判ってきた。それはこの国が民族・文化において多重構造であることの結果であり、アジアの文化の系統のいくつかがカトマンドウ盆地の柱建て儀礼には凝縮されているのである。
最後に三つの柱建て祭りの社会的側面について言えば、それは地域的共同体の祭事に止まらず、都市全体、さらには国家のレベルにまで拡大していることが特長的であるといえよう。
三つの祭りは中世においては小都市国家の祭儀であったが、インドラ祭のみは近世以降シャハ王朝の支配圏が現在のネパール王国の範図に近い線まで拡大した結果、理念的には王国全体に関わるものとなったのである。いずれにしろ歴史を遡ってみれば、本来これらの柱建て祭りは、小なりとはいえ王が主宰する国家儀礼であった。その名残りは現在もなお各祭儀において見ることができる。
まず必ず伝統的儀杖兵に伴われた、マッラ王のものと考えられる「王の剣」が臨席すること。次に全体の進行を統括しているのは、祭礼執行管理機関である「グティ・サンスターン」の中央事務所の係官であること。そして祭りの主宰者(祭主)が王あるいはその代理であることだ。王国の形態を失ったパタンにおいては王の子孫あるいは代理人であり、カトマンドウにおいては、「王の馬」のみが臨席する、姿の見えない現国王であると考えられる(バクタプルの祭王は未確認)。
マッチェンドラ祭では最終日に「ナーガ王のチョッキ」を山車の上から人々に示す儀礼があるが、この時現国王とパタンのクマリも臨席する。これは盆地の原住民であったナーガ王から征服者の王に権力を委譲する服属儀礼であると考えられる。カトマンドゥのクマリ山車巡行の際にもティカの授与が行われたが、こうした国家の権力に関わる儀礼が柱建て祭りの場で行われるということから、逆に柱を建てることの社会的重要性が照射されてくるのではないか。
そこには現代人の感じとることのできぬ「柱」というもののもつ求心力が、存在していたように思われる。近代以前の王国にとっては、民と王とがそうした自然=神の大いなる力の充満する場を共有し、相い対することが、国という共同社会を運営していくうえに有効であると考えられていたのではないか。
<ネパール研究家>
◎写真4]5]6]はラクシュマ撮影
◎本稿の作成に当っては、平成10年度の国際交流基金研究助成による調査を基礎にしている