明清から民国時代の北京の日常を再現した羅信耀の『北京風俗大全』(邦訳、平凡社)にもこの中幡の妙技のことが述べられている。長いだけでなく、重さ五〇キロにもなろうかという竿を投げ上げては額で受けとめるとか、牌楼(アーチ)があると、それを飛び越すように放り投げ、これを直立したまま受け取るなどという技を披露したものだという。
◎生命樹としての華蓋◎
江陵の華蓋もかつては巫女のクッや人びとの昂揚したまなざしのさなかに持ち競われた。秋葉はこれについて「喧噪限り無き巫楽と狂踏乱舞の最中に之を樹てる人々の興奮はさこそと思はれるが、官奴の中には、代々之を樹てる様な人が生れると云はれ、それは全く神助に依るものと信ぜられて居る」と記した。
華蓋も独特の無言仮面戯も「官奴(クワンノ)(官衙で下働きをした者)」が担ったもので、これはカミゴトの一環であったことが窺われる。一方、五月は悪月ともいわれた(『荊楚歳時記』)。五月になれば、ものみな生長をはじめるのではあるが、同時に瘟疫もまた起こる。わたしの考えでは、この悪月にあたって、民俗世界では「天梯」を立て通天することでまさに「都広の野」に戻ることが期待された。天に通うことは神仙のよくすることであるが、のちには「天梯」を上下させ得る者がその栄誉を担った。それが力自慢の者の競い合いを誘ったのであろう。
これが江陵に伝承された経緯はつまびらかでないが、華蓋に関する上記三種の伝承と基本において通じる民俗がなおひとつ知られている。