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寺部分をのぞく母屋部分では、西の一列は通路、押入と6畳、押入と8畳、中庭、床の間と9畳となっている。一列東では、10畳、8畳、8畳、8畳で、通り庭より一列西側では、10畳、8畳、8畳、仏間と6畳となっている。土間の入り口付近には井戸が記されているが、これは、魚屋もしくは魚に関係する仕事に従事していたおりに使用していたものがそのまま残っているものと考えられる。通り庭より東の一列は8畳、押入と6畳、押入と6畳がならび奥に廊下がある。その奥にも井戸があり、これが食事などの家事用に使われたと考えられる。

そして、もう一枚元治元年(1864)前後と思われる図『彦根上魚屋町内屋敷図』があり、(図5-14)これには各部屋の名称が書かれている。これには西側より一列目から、庭、押入と小玄関、床、押入と6畳、中庭之間、中庭、一番奥に床と造り棚のある上之間とよばれる8畳がある。一列東よりでは、連之間と呼ばれる10畳、中之間と呼ばれる8畳、中窓と呼ばれる8畳とつづき、一番奥に中之間と呼ばれる8畳がある。通り庭より一列西側では、表之間と呼はれる10畳、台所8畳、台所8畳がつづき、押入と仏壇のある6畳の仏間がある。通り庭より一列東では、酒店、出入り口があり、押入と6畳、押入と6.5畳、廊下、庭となっている。

5-2-2-3 明示20年、39年、戦後以降の図について

明治20年(1887)(図5-15)には、通り庭の西側で表通りに近い手前の2部屋がひとつづきになり、一番奥には水屋として3坪ほどの部屋がつけ加えられた。

明治39年(1906)(図5-16)になると通り庭として使われていたスペースが広くなり、南側の奥に向かって2間つづきの部屋が土間へと変わり、通り庭より西側の通り沿い2部屋は店舗になっている。また、台所が4坪だけになり、もう1部屋は土間へと変わっている。台所がなくなったことにより、ハシゴダンがなくなり、それに変わってとなりの部屋に階段がおかれた。このころからハシゴダンや箱階段を使わず、部屋に階段をつけるという習慣や、様式がとりいれられるようになったのだろうか。

最後に戦後以降(昭和20年、1945)の図『家屋平面図』ではあるが、(図5-17)ここで初めて2階部分の図面がでてくる。それまでは1階部分しか記されていない。2階についてはすべて物置と記されているが、使用人などがいたり、住み込みで働くものがあれば2階部分を部屋として使用していたのだろう。江戸時代にば郷宿を営んでいたという記録があることから、当時は2階に畳が敷かれ人々が宿泊していたと考えられる。1階は、店舗として使用されていた部分が土間と店之間に分けられている。

このように年代によって家の内部は改造され、そのときの商売や生活様式により大きく変化していくことがわかる。年代別に何枚かの屋敷絵図がみつかったことにより奥野邸の変遷をたどり復原していくことが可能となった。

5-2-3 奥野邸復原案

5-2-3-1 復原の方法

この復原は奥野邸屋敷図のうち最も古いと思われる安政2年(1855)頃の絵図を用いておこなった。復原には、古絵図と実測調査のデータをもとにAuto CADを用いて3次元のモデルを作成し、3D Studioを用いてテクスチャを貼り付けレンダリングをおこなった。コンピュータグラフィックによる復原の優れた点は、様々な視点から復原案を検討したり、建物が年代ごとにどのように変化していくかということが視覚的に理解できるようになるところにある。

また、部屋などの名称は少しずつ変化しているが柱などの主要部分は安政2年(1855)頃から変わっていないため、内部は安政2年(1855)頃の古絵図を使用し、建物の寸法などは現在の奥野邸を実測したものを使用した。

なお、現地調査は、1997年におこなった。

5-2-3-2 奥野邸復原についての考察

奥野邸の復元作業は奥野邸が広いことや2階もあることからかなりの時間を要した(図5-20、図5-21)。復原の際に参考とした安政2年(1855)頃と思われる絵図には、床の間はなく仏間も取り付けたようなもので、押入も独立していたような形跡がない。これらに関しては、大型のタンスなどがおかれていたのではないかと考えタンスをおくことにした。

 

 

 

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