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奥野邸からは江戸期の上魚屋町の町なみ絵図や屋敷図が見つかっており、そこから当時の町の様子や屋敷の変遷がわかる。奥野邸の屋敷図では、安政2年(1855)と推定される図(図5-12)、元治元年(1864)の図(図5-13)、元治元年以降の図(図5-14)、明治20年(1887)(図5-15)、明治39年(1906)(図5-16)、戦後(昭和20年、1945)以降と思われる図(図5-17)が見つかっている。

敷地の間口は約20m、奥行きは約35mである。通常の民家の母屋に比べて奥行きが深く、通り庭に2列4間の構成を基本構成とし、通り庭をはさんで反対側に1列4間、さらに北西側に壷庭を取り込んで3室が付け加えられている。明治期にはしょう油製造のための麹室などが設けられていた。現在では1階部分にガレージ、待合室、診察室が設けられている。外観も医院として使用される際に1階部分のほとんどを改造したが、庇より上の塗りごめの壁や格子窓、軒裏、袖壁、屋根などは創建当時の状態をよく残している。

現在の奥野邸の様式からみて普請見舞帳が書かれた安政2年(1855)の建築ではないかとみられているが、部屋の間取りなどでは元治元年(1864)の絵図とほとんど変わりのないことから、現在の間取りは元治元年(1864)のままと考えられる。二階については、戦前の図面はなく戦後のものしか残っていない。江戸期にはどのような様子であったか詳しくは分からないが、戦後のものは現在とほとんど同じ間取りである。(図5-18、5-19)

奥野邸において構造的に注目するべきところは表通りに面したつしから奥の1階部分の天井が急に高くなることである。これは、2階においてはその分だけ床が高くなるということである。これからいえることは、平屋建てから2階建てへの過渡期の時期の建物だということである。日本の民家は長い間平屋建てが普通であった。2階がみられるようになるのは、古くは安土桃山時代頃からだといわれているが、これ以前は、屋根の上に2階を乗せたような格好になっていた。本格的なものは城郭建築の発達と関わりがあるといわれているが、それでも屋根の上に2階を乗せたような格好であったことにかわりはなかったようだ。民家における2階の発達は非常に歳月がかかったと考えられている。まず、通りに面した部分の屋根が持ち上がり、つし2階ができた。つぎに奥の部分の屋根が持ち上がり本2階となる。そして、つし2階だった部分が本2階になるという発達のしかたをたどっていった。この間約200年以上かかったといわれている。しかし、民家の2階建ては旅籠や遊里として使用されていた建物がほとんどで、これらの建物の2階が真っ先に発達したとみられている。奥野邸は江戸期に郷宿を営んでいたことから、当時としては珍しい2階建ての建物であり、本2階になる過渡的な様相を呈しているのではないかと考えられる。

5-2-2 奥野邸屋敷古絵図

5-2-2-1 安政2年頃の図について

前にも述べているが、安政2年(1855)という年代が出てくるのは普請見舞帳が書かれた年だからである。このころの奥野邸の建築と現在の奥野邸の建築に変化が見られないことからほぼこの年代から大きな手は加えられていないだろうという判断によるもので、その後、間取りは変化しているため、間取りはこのころのものではない。安政2年(1855)頃と推定される『上魚屋町筋屋敷間取り図』(図5-12)がもっとも古く、西側に小玄関があり、イタシキがおかれていた。奥に向かって、中窓がある6畳へとつづき、奥に8畳、中庭、一番奥の8畳間とつづく。小玄関より西側の一列は、奥に向かって基本的には8畳間で構成され、8畳(押入2畳)、奥に8畳、8畳(押入2畳)とつづき一畳の仏間のある7畳間が一番奥になる。

次に、土間より一列西側には10畳(押入2畳)、奥にハシゴダンのおかれた8畳、そして、8畳、8畳と部屋がつづく。通り庭をはさんで一番東側の一列は10畳(押入2畳)、物置と4.5畳、奥に6畳、廊下をはさんでトイレとなっている。これは、比較的地位や身分の高い人々のための宿泊用の部屋ではないかと考えられる。通り庭をはさみ、ほかの部屋とは区別され、独立したスペースとなっている。この絵図は部屋名は書かれておらず、すべて上魚屋町通り側から奥にむかって西側より説明した。

5-2-2-2 元治元年、元治元年頃の図について

元治元年9月(1864)の『上魚屋町筋家並四分間絵図』(図5-5、図5-13)の奥野邸は現在の和光寺と廊下でつながっており、かなりの規模になっている。

 

 

 

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