上魚屋町通りについては絵図が残っており、そこから当時の町なみや家の様子などをうかがうことができる。文政7年(1824)と天保7年(1836)、元治元年(1864)の古絵図から上魚屋町に建っている家々の間口を集計し、どれぐらいの規模の家が並んでいたのか、また年代が移り変わることによってどのくらい家の軒数や規模が変化するのかを調べた。
文政7年(1824)の『彦根上魚屋町町図』は道に沿って家が割り付けてあり、住人の名前が書かれている。家の規模については、奥行きと間口が書かれているが、この図についての詳しいことはわかっていない(図5-3)。
天保7年(1836)の『御城下惣絵図』は6枚分割の絵図として伝わり、伝存する城下町絵図としては最も詳細なもので、方位や距離などの若干の誤差はあるものの、江戸時代後期の城下の形態をほぼ正確に伝えていると考えられる(図5-4)。天保7年(1836)の初夏から晩秋の約半年を費やして、向坂縫殿介・加藤勘八郎らが奉行に命ぜられ作成した。絵図中の付書には、「従来1枚の絵図として伝えられた御城下惣絵図が年数を経て、折目の所が、自然に摩滅し、わかりにくくなったため、この度は6巻の分絵図として改めた」とある。彦根藩では以前から同様の絵図があり、摩損や破損した時は新たに書き換えられていったのであろう。武士と松原の水主衆(湖上輸送にたずさわった人々)の名前が記され、土地利用の区別により正確に色分けがされており、当時の城下町景観をよく伝えている。また、この絵図には、天保7年以後、居住者や屋敷割りなどの変更にともない加筆修正が加えられており、明治初期に至る城下の変遷を知ることができる(『彦根の歴史-ガイドブック-』彦根城博物館)。図5-4はその一部の魚屋町通りを拡大したものである。
元治元年(1864)『上魚屋町筋家並四分間絵図』の図は、一軒一軒の間口と間取り座敷の大きさなどが細かく書き込まれている。井戸や土間、押入、仏間などの表記もあり、家の様子がよくわかる(図5-5)。
上魚屋町というのは京橋通りからつぎの十字路までの範囲をいい、今回は、この範囲を中心として調べた。現在この通りには彦根城よりの並びに20軒、向かいに18軒の家が並んでおり、その全長は1/2500の地図からでは162mになる。文政7年(1824)の『彦根魚屋町町図』では彦根城よりの並びに16軒、向かいに20軒の家が並んでいることがわかる。絵図にかかれている家の間口は「間」(けん)で表記されており1間を1.8mとして計算すると上魚屋町の全長はだいたい162mになる(図5-3)。天保7年(1836)の『御城下惣絵図』ではお城よりの並びに25軒、向かいに19軒の家が並んでいることがわかり、全長は140mである。(図5-4)元治元年(1864)の『上魚屋町筋家並四分間絵図』ではお城よりの並びに25軒、向かいに25軒の家が並んでいることがわかり、全長はだいたい213mくらいになる。(図5-5)これらを比較し、通りから通りまで家の軒数と間口の変化について比較し、年代を経るごとにどれだけ変化したかを調べてみた。