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町家という建築の型は、次のような点において特徴がある。

まず第一に、「おもての道に直接面して家が建つ」ということである。町家は、都市の商人の、職住併用の住宅であり、道に面するおもての部屋は、店として使われる。従って、町家は、武家屋敷のように土塀をまわした屋敷構えにすることはなく、直接道に面して建てられる。この場合、たとえ店をやめてしまった仕舞屋(したもや)であっても、町人の家であるかぎり、道に面して町家として建てられた。

第二に、「隣どうし軒を接して立ち並ぶ」ということである。町人には、基本的に間口の大きさにより、軒役という税が課せられていたし、通りに面してできるだけ多くの人が住むということから、家は間口方向に狭く割られていかざるをえない。

店という商空間としておもてを利用するため、町家は、その狭いおもて間口いっぱいに、隣と軒を接して建てられた。逆に、格の高い大店などでは、大切なおもての一部を、塀をまわして庭につくったりすることによって、より格を高めていこうとする傾向もみられた。

第三に、「あくまでも独立住宅である」ということである。たとえ隣どうし軒を接して家がならんでいても、柱を共有することはなく、独立住宅なのである。柱を共有する家は長屋といって、借家建てであり、いちだん低くみられた。

以上をまとめると、町家は、都市の町人階層の住宅で、おもての道に面し、隣どうし軒を接して建てられた、独立住宅である、と定義できる。

3-0-4 彦根の町家

彦根の町家の建築的特徴を間取りについてみると、彦根の町家の平均的な間口は3〜4間で、おもてからミセノマ、ナカノマ、ザシキと三室ほどが主屋として一列に続き、ザシキに面してナカニワがとられ、その奥に土蔵が建てられている。おもての道から奥の土蔵前まで、土間のままのトオリニワが通路空間としてとられていた。

間口が5〜6間になると、主屋の部屋が二列になり、8間以上になると、三列というように増えていく。この場合、主屋入り口の対角線にあたる、最も奥の位置に主座敷がとられるということが基本である。

こういった町家の間取りは、敷地の制約上、もうこれしかないというほど様式的に完成しており、間取りについては東北を除き、日本中どこへいってもよく似ている。

3-0-5 通り庭

このように江戸時代に完成され、全国各地にみられ、現代に引き継がれてる「町家」の典型的な平面は、やはり通り庭のある町家が基本的なタイプであったとみてよい。その意味で、この通り庭型の住居がつくられ、生きながらえてきた理由をここで取り上げておきたい。

1]土間(トオリニワ)が家の中で重要な生活空間であったこと。町家においても農家と同様、家業をふくめて家事作業の多くは土足と水につながっていたので、広い土間が必要であった。家事・イエ生活の大部分はここでおこなわれた。床上は儀礼的な接客と就寝だけがおこなわれる空間であった。

2]プライベートな空間としての床上空間への通路の役割を果たした。もっともこれは現代人の感覚からの判断で、封建時代の家生活をそういうふうに簡単に解釈するのはまちがっている。一家の住人は、身分・長幼・男女によって上下の差別が厳格であり、私的な生活をかくすという近代的な意味のプライバシー(空間の独立性)よりも、そうした身分格式による隔離の方がもっと大切であった。床上と土間は、そういう格式的な空間分割をおのずから形づくっていた。

3]トオリニワの広さは土間生活の機能的な要求、人間の働きやすさからきめられているが、寸分の厳密さが求められるわけではない。せまい宅地いっぱいに家を建てて土地を有効に利用しようとする場合、江戸時代になって確立されてきた木材・建具・畳などの建築材料の規格化と結びついた部屋割りから生じてくる間口寸法の過不足を「にげる」場所として、土間は有効であった。

 

 

 

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