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長屋と町家を区別するため、ここでは軒高の低い長屋は低二階長屋、軒高の高い長屋を高二階長屋とする。以下、低二階町家を低町家、高二階町家を高町家、低二階長屋を低長屋、高二階長屋を高長屋と記述する。平屋と3階建は一目で判断できるが、低町家(低長屋)と高町家(高長屋)については明確に判断できるものと、その境界が非常にあいまいなものがあった。悉皆調査では1000近くの家を調査しなければならなかったため、見た目の印象と2階軒高の寸法で判断したが、実は2階軒高だけでなく、1階軒高の寸法も大いに関係していることがわかった。これについては後の項で詳しく述べるので、ここでは記述しない。

調査対象の518件の町家のうち、低町家が62%と半分以上を占めている。次いで高町家が34%で、平屋は3%と少なく、3階建になると1%以下であった。(図2-1)。

家屋台帳による建築年代から町家の形をみると(図2-3)、平屋と低町家は圧倒的に建築年代の古い家が多く、特に江戸期に建てられたものが多いことがわかる。これは、領主の規制で軒高の高さが規制されていたためだと思われる。

江戸期では、平屋と低町家で合わせて90%存在しているのに対し、高町家は10%ほどであったことから、彦根の城下町は当時、軒高の低い家がつらなっていたといえる。しかし、この比率も年代を追うごとに徐々に逆転し、大正期以降は高町家が町家の2倍になっている(表2-1)。幕府崩壊後、士農工商の身分制度がなくなって領主の規制に従わなくてもよくなったことと、建築技術の発達にともない2階に居室を設けるようになったことの2つの要因が考えられる。

以上のことから、軒の低い平屋や低町家は建築年代が古く、軒が高くなるほど新しい家であるということが明らかになっている。

長屋は、調査した132件のうち、高長屋が47%と半分近くあり、低長屋は35%で、平屋は10%にも満たない。その他というのは道に面していない長屋の家で、オーミケンシ工場の寮などの社宅のことである。(図2-2)

町家と比べると、低長屋と高長屋の比率が反対になっている。これは、全体として長屋の建築年代が町家よりも新しいからだと推測できる。長屋についても家屋台帳による建築年代で考察してみる。(表2-2)江戸期から長屋は存在していたが、その戸数は少なく、長屋の総計の約14%である。そして、江戸期では町家と同様、高長屋より低長屋の方が戸数が多いという点はみのがせない。低長屋も建築年代が古いといえる。

長屋が特にたくさん建てられた時期は、大正5年以降である。(長屋の総計の32%)大正5年以降の高長屋と低長屋を比べると、高長屋は81%で低長屋は17%であった。町家でもこの頃になると、低町家にかわって高町家が普及するようになる。すなわち、軒の高い家が一般的に建てられるようになった時期と、長屋があらわれるようになった時期はほぼ同じであるということである。長屋に高長屋が多いことも、そういった時代背景があるからだ。

2-2-3 居住地からみた町家と長屋

江戸期城下町絵図から、彦根の城下町は武士・足軽・町人・水主(漁師)と4つの身分に分かれ、居住区も分けられていた。現在の彦根は外濠が埋め立てられているが、道や区画はほとんど変わっていない。残存している町家(長屋)と江戸時代の居住区との関係は、いまどのようになっているか考察する。

町家は武士居住地や足軽居住地に建てられているものもあるが、80%が町人地に建っている(図2-4)。居住地別に町家の形をみてみると、町人地には低町家が半分以上あるのに対し、武士居住地・足軽居住地は町人と逆で高町家が半分以上占めていて、武士居住地・足軽居住地はほぼ同じ傾向となっている(図2-5)。

町家の居住地を年代別でみてもわかるように(表2-3)、町人地は江戸期の町家が約50%であり、低町家の建築年代が古いということをふまえると、町人地に低町家が多いことと一致する。やはり、江戸時代は町人地には町家が建てられていて、現在も当時の町家が残っていることがわかる。

武士居住地・足軽居住地ともに建築年代は明治39年からのものが多い。武士居住地・足軽居住地に建てられた町家は年代が新しく、よって高町家の比率が多いのである。長屋の居住地は、武士居住地・足軽居住地・町人居住地に均等に分かれている(図2-5)。

 

 

 

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