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序章

 

濱崎一志

 

0-1 彦根城の築城と城下町の建設

彦根は西に琵琶湖、東には中山道が通り、水上交通、陸上交通の要所であったが、この地に城が移された近世には著しい発展を遂げた。

この地に城が築かれる以前は、佐和山に城があり、芹川もJR彦根駅付近から現在の城の北にあたり松原内湖に流れこんでいた。また、城の築かれた彦根山には彦根寺が建っていた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで功績の大きかった井伊直政が石田三成にかわって佐和山の新しい城主になった。直政はせまい佐和山から彦根山に城を移す計画をたてたが病にたおれ、慶長8年(1603)嫡子である直継がその遺志をつぎ、彦根城の築城工事を開始した。幕府の命によって伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7国12の大名が応援したにもかかわらず、慶長8年(1603)〜元和8年(1622)頃までの約20年の歳月を要してようやく完成に至った。城の建築資材は、佐和山、大津、長浜、安土の古城のものが使われ、天守閣も大津城の天守閣を移築したものといわれている。

城下町の完成は寛永19年(1642)までかかっている。城の築城からあわせると約40年の歳月が費やされ、今日の状態がほぼ完成したといわれている。

城下の建設にあたり、彦根の地は農村と水田にしかすぎなかったため、土地をならし、水地を埋め、川を整理した。障害となる既存の建物は破壊され、寺社は撤去・移転され、住民は家を移転させられたうえ耕地も没収された。慶長9年(1604)にはほぼ地割りが終了し、家臣は城下に定住することになった。その後、町人の居住区として、本町、四十九町、上・下魚屋町、佐和町が完成した。

当初・特権町人は広大な地割りを与えられており、近世城下町の町家にみられるような軒をつらねてぎっしりと家が建ちならぶような景観ではなかった。道路は外敵の進入に際して、敵の矢や、鉄砲の射通るのをさけ、攻め込む敵の勢いをおとすため各所に屈折をつくる道路計画がなされている。また、中堀をめぐる道路や城郭の大手につながる主要道路は広く、公的な道路から裏町などへは小道でつらなっていた。

このように戦闘本位の山城であった佐和山城から、近世的な政治の中心の性格の強い平山城としての彦根城が成立した。この近世的な城郭と全く一体化した城下町は、2〜3の村落と田畑にすぎなかった地に、軍事的な性格を基本とした計画的な都市が忽然と現れ新しい町人層を形成していった。

0-2 城下町の構造

城下町の内部構造は、全体を4つの郭に区画し、武士、町人、足軽など身分によって計画的に居住区が配置されていた(図0-1)。

その第1郭は、天守閣を中心とした城主の邸宅、表御殿、米蔵、材木蔵などがおかれ、内堀と高い土塁・石垣で守られた城郭部分である。

第2郭は、二の丸と呼ばれる部分で、内堀と中堀に挟まれた禄高1000石以上の武家屋敷が配置されていた。第2郭の周囲には、石垣・土塁・中堀がめぐらされ第3郭ときびしく区別されていた。中堀に沿って佐和口、京橋口、船町口が設けられこの門を通じて外と往き来していた。

第3郭は、中堀と外堀に囲まれ武家屋敷と町家からなる内町と呼ばれる商業地区である。周りには外堀がめぐらされ、松原、長曽根、中藪、池州、高宮、油掛、切り通しの各口を通じて行き来していた。

そして、第4郭は、外堀の外側で外町と呼ばれ足軽屋敷や町家が配置され、その南に芹川が流れている。外町の周りには南に猿尾口、芹橋口、上番衆、東に里根口、北に大洞口と7カ所に番所がもうけられ城下の警備をしていた。以上の4郭の構成によって彦根城全体は構えられていた。

 

 

 

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