(3) 花林軒(桜田屋敷) 元禄15年(1702)に、五代藩主純正が造った庭園で、築山や泉水のある遊宴の地であった。玖島城の一部とも考えられるが、『郷村記』では、本小路に位置づけられている。玖島城築城当時は、藩主の一族の屋敷だったが、その後、四代純長の時に藩校「集義館」が建てられた。藩校は、静壽園、さらに五教館となり、本小路の別の場所へ移っていった。 その後、役人屋敷や水神社などがあったが、現在では庭園だけが残されている。
(3) 花林軒(桜田屋敷)
元禄15年(1702)に、五代藩主純正が造った庭園で、築山や泉水のある遊宴の地であった。玖島城の一部とも考えられるが、『郷村記』では、本小路に位置づけられている。玖島城築城当時は、藩主の一族の屋敷だったが、その後、四代純長の時に藩校「集義館」が建てられた。藩校は、静壽園、さらに五教館となり、本小路の別の場所へ移っていった。
その後、役人屋敷や水神社などがあったが、現在では庭園だけが残されている。
写真3-3 花林軒
(4) 五教館 五教館は大村藩の藩校で、その期限は桜田屋敷に設けた集義館にさかのぼる。九代藩主純鎮の時、学問と武芸の両部門に分け、五教館・治振軒となった。この五教館の特徴は、藩士の子弟に限らず、一般の子弟にも開放されたことで、明治維新前後に活躍した大村出身者の多くは、ここで学んだ。 なお、現在地には十代藩主純昌の時に写され、明治の学制発布まで教育を続け、玖島小学校に引き継がれた。 なお、御成門(通称黒門)は県指定史跡。
(4) 五教館
五教館は大村藩の藩校で、その期限は桜田屋敷に設けた集義館にさかのぼる。九代藩主純鎮の時、学問と武芸の両部門に分け、五教館・治振軒となった。この五教館の特徴は、藩士の子弟に限らず、一般の子弟にも開放されたことで、明治維新前後に活躍した大村出身者の多くは、ここで学んだ。
なお、現在地には十代藩主純昌の時に写され、明治の学制発布まで教育を続け、玖島小学校に引き継がれた。
なお、御成門(通称黒門)は県指定史跡。
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