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明治29年(1896)に熊本で編成された陸軍部隊は翌30年には大村に駐屯することとなった。これが歩兵第46連隊であり、兵力1個大隊(約1,000名)の編成であった。現在の陸上自衛隊大村駐屯地にあたる。

廃藩後すっかり疲弊していた大村の町は、陸軍の駐屯により、にわかに活気を呈してきた。部隊への納入業者、旅館、飲食店、料理屋などが次々と営業を始め、大村はこうして、城下町より軍都としてその姿を変容させることとなったのである。

陸軍が駐屯した明治30年(1897)をはさみ、明治17年(1884)と大正3年(1914)との人口比較を行うと、7,528名にのぼる人口増加がみられ、陸軍駐屯が当市に与えた影響は多大であったことが一目瞭然である。

更に大正12年(1923)には、大村湾岸の今津に海軍航空隊が開設され、陸海軍の軍都としての性格はますます強くなった。

また、当市を軍都として決定づけたのは、昭和16年(1941)以降、漸次建設が進んだ第21海軍航空廠の設置であった。艦上攻撃機流星製造をはじめとする軍事工場であり、当時、東洋一を誇る規模であった。

そこでの勤務工員数も大人数に昇り、その工員用住宅が水田、杭出津、諏訪、池田、古町の各所に建てられ、その数は2,100戸にも及んでいる。人口も昭和18年(1943)には6万7,728人と上昇し、更にその成長ぶりが期待された。

ところが昭和19年(1944)10月の米軍機による徹底的爆撃により、航空廠は壊滅的被害を受け、その機能を殆ど失うに至ってしまった。城下町に代わる軍都としての都市機能も、この爆撃と、翌年の敗戦によって全く消滅してしまうことになるのである。終戦直後、昭和21年(1946)の人口をみると、5万2,475人に激減し、城下町から脱皮して、新しい都市機能のもとに発展していこうという矢先に、また新たな試練を迫られることとなった。

終戦後、長崎の原爆に被焼した学校が大村に移転し、旧軍施設を利用して学業を再開したことは、大村にとり新しい大きな期待となった。長崎男子師範長崎医大基礎医学部、長崎工業高校、純心女子学校、県立ろう学校、それに加えて既に昭和12年(1937)から大村に開学していた女子師範学校を含めると、まさに学園都市の様相を呈し、市民も軍都より学園都市への脱皮に大いに期待したのであった。

 

 

 

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