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この城は、かつて大村地方に築かれた城と比較すると、立地場所が臨海地である点で、大いに異なっている。

それは、築城者大村喜前が、朝鮮出兵に参陣し、海辺の順天城を攻撃した際、攻めあぐんだことを教訓に築城した為である。玖島城の築城によって、その周辺には当然城下町が形成されることとなった。現在の大村市の南部を流れる内田川を境として、そのお城側を武家屋敷地域、反対側を商家地域と定め、機能を分担させた。

武家屋敷地域には、五小路という五つの通りを設け,その両側に武家屋敷が構えられた。五小路とは、本小路、外浦小路、小姓小路、上小路、草場小路である。

この五小路は、慶長4年(1599)の検地の時には既に完備されている。その検地結集を記した『慶長高帳』には、城下五小路に集住した家臣図の顔ぶれが一堂に記され、その数は117名である。

なお、武士たちの居住区域は時代と共に広がり、岩舟、久原、日向平にも及んだ。表2-1は幕末の武家屋敷の実態である。

 

表2-1

大村城下武家屋敷の規模(安政年間)

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『郷村記』より作表。

 

大村城下町の都市機能を考える際、もう一つ忘れてならないのは、長崎街道が城下を通過していた点であろう。

江戸時代に唯一海外に開かれた港は長崎であった。西洋、中国からの異文化は、まず長崎に上陸し、それから日本の各地に伝播していった。その長崎には、全国から新しい知識を求めて文人学者が往来することとなった。その道がいわゆる長崎街道である。小倉から長崎に至る道であった。

大村藩領では、嬉野から俵坂を越えた彼杵宿から始まり、現在のほぼ34号線を通り、桜馬場・小曲・大曲・杭出津・水主町・本町・春日神社下・野田神社前・岩松・二本松を経て諫早越えにかかるルートである。

この道を通った文人学者の中には、その紀行文に大村の様子を記したものも散見される。司馬江漢は『西遊日記』に次のように記している。

彼木を六ツ時過ぎに出立して三里行き、松原と云ふ処を過ぎて大村に入る処、五・六町の間、キレイなる処、中に桜を植う、赤新城と云ふ処、船の着く処なり、夫より大村に入る、城下家ゴトにしめを張り、入口に香をたきあるを見て甚だ怪しみ、問屋場にて之を聞くに、此地庖瘡をきらふそれ故か婦人甚だよし。

 

 

 

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