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2. 三城と玖島城の築城

 

(1) 三城と城下町の形成

キリシタン大名大村純忠は、永禄7年(1564)に居城を従来の郡地方から、武部の丘に移し、三城と称した。と同時に前代・大村純前の頃に形成されていた大村館周辺の町を基盤として、三城の城下町がつくられた。これが大村地方に出現した「町」の初例といえる。城下町としては、上級家臣の40名程が屋敷を構える小規模なものであった。しかしその北の端には、約10軒程の常設店舗も出現しており、記録による限り、この地方における店の出現の初も、実はこの城下町においてであった。

またこの町には為替という金融機能も存在した。これは伊勢神宮の御師によって導入された制度である。当地方から伊勢参宮を行う者たちが、途中での路銀紛失の危険を避けるために、出発前に為替に組んで目的地伊勢に送金する手段として用いられた。町中には替本という現金振込み期間があり、ここに振り込むと為替証書が発行され、それを伊勢まで持参して、彼地で換金するというしくみであった。町中で為替本を勤めたのは、宝生寺という寺院と芦塚掃部という上級家臣であった。

このような三城城下町の特徴として、キリシタン大名大村純忠によって造られたことから、キリシタンの町としての性格が強かったことである。三城のすぐ麓には、永禄11年(1569)に大村地方の最初の教会といわれる「御やどりの教会」が建てられた。この教会はまもなく起こった諫早西郷氏との合戦の戦火にあっているが、その後すぐに、隣接した旧宝生寺の境内に領内最大の教会が建立されている。そして仏教寺院であった宝生寺は、教会附属の語学校・住院に改築された。

三城城下町の町割を記した地図が、「大村館小路割之図」として現存する。そこに描かれた道は、今に殆どそのままに残っている。その道の両脇には、野面石を積んだ石垣が整然と並んだ箇所が多く見られる。

 

(2) 玖島城の城下町

大村市は近世大名として脱皮するため諸策を展開する中で、居城を玖島に移し、玖島城(大村城)と称した。築城したのは、大村純忠の長男・大村喜前である(慶長4年)。

 

 

 

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