大村地方史の分野では、この十坊は長らく奈良時代の創建とされてきた。しかしそれを裏づける史料は、何ら存在しない。最も確実な最古の史料は十坊の一つ東光寺所在の墓碑に見える正和5年(1316)の銘であり、鎌倉末期の存在はこれによって確認される。
『紫雲山延命寺縁起』等によって、郡七山十坊の寺院群が成立したのは、14世紀の後半であったと思われる。室町時代に入り戦国期に至ると、大村地方きっての穀倉地帯・郡地方は、大村地方にとり前時代にもまして、死守すべき経済的要所となった。周辺諸大名の攻撃に備え、郡地方防備のために築かれたのが、好武城、今富城である。大村純治、純伊によって築城されたと伝えられるが、15世紀の中葉から16世紀初頭にあたるものと思われる。いずれも、郡川右岸に立地する。
弥生時代から広範囲に稲作が始まった郡地方は、その後も前述の通り条里の施行・郡七山十坊、また中世古城などの存在から、古代・中世を通じてこの郡地方が中心であったことは明白である。
『宮後三頭太夫文書』の中に大村の円満寺の所在について、「肥前国郡の大むらとみ松山円満寺」とある。現在の認識では、大村の中に郡地方が含まれるのであるが、宮後文書では「郡の大むら」と逆転している。この表現でもわかるように、かつては「郡」が大村の中心地であり、先進地であったことを如実に物語っている。
さて、郡地方の先進性は、古代・中世を通じてゆるぎないものであるが、ここに準じるもう一つの先進地として、大村市のほぼ中央部を流れる大上戸川両岸の肥沃な帯を挙げることができる(現、水田、杭出津一帯)。
ここにも同様に条里遺構が確認され、また中世の寺院群が林立した一帯であった。大上戸川のうちでも、寺院が郡立した一帯を現在でも「本堂川」と呼称する。
加えてこの本堂川に面した一画には、大村氏の平時の館「大村館」があった。その創建時期は明確ではないが、既に16世紀の中頃には確認できる。
そしてその大村館の周辺部には、町の初例的構えは発生しているのである。