第2章 城下町大村の形成と展開
1. 郡地方の古代・中世文化
大村市地域は、多良岳産経から流れる郡川の扇状地として形成された平野部を中心に形成されており、長崎県内においては、山・海・平野を持つ多彩な自然に恵まれた地域である。大村地方にいち早く文化を開かせたのは、大村地方北部を流れるこの郡川である。元来、大村市の大半以上が、郡川によって形成された扇状地の上に立地している。
さて、大村文化の芽生えは旧石器時代まで遡る。その遺跡として、「西の岩宿遺跡」として著名な野岳遺跡がある。標高200m程の高原地帯にあり、現在の野岳湖周辺に点在する。無数のマイクロブレイドが出土し、約1万3,000年前の旧石器時代人の営みが確認される。
旧石器の生活から農耕生活に移行していった場所は、郡川周辺の肥沃な土地であった。その代表的遺跡が富の原遺跡である。主な出土品は、鉄尤、甕棺、住居跡、祭祀跡などがあり、殊に鉄尤、甕棺の出土から、この大村の地にも北九州文化圏が及んでいたことが判る。
ところで、旧石器人が弥生時代に移行する際、その中間の時代、即ち縄文時代人が生活したであろうと思われる原生林が、そのままに残されている。大多武狸尾の堤一帯に見られるイチイガシ原生林がそれである。そのような意味から、このイチイガシ原生林は、縄文人の生活空間を今に伝えるものとして、きわめて貴重な存在である。
イチイガシは、その実は縄文人の食料となり、木自体は良い建築材、造船材となった。従って縄文人は好んでこのようなイチイガシ照葉樹林の中に生活したのである。そのような意味から、このイチイガシ原生林は、縄文人の生活空間を今に伝えるものとして、きわめて貴重な存在である。
奈良時代、中世の室町時代に至るまで、大村の中心地は、郡川周辺の郡地方から動こうとしなかった。郡川左岸の沖田地区には、奈良時代の条理遺構が確認できる。その名残と思われる坪の名を示す「九坪」という小字名がかつて存在した。
郡地方の先進性を物語るもう一つとして、中世寺院群が存在した。いわゆる郡七山十坊と総称される10カ寺である。