▽鳴き砂にたいする意識
以前は、どこの浜の砂も鳴いていた。砂は鳴くのが当然と思い、特に鳴き砂を意識することはなかった。「鳴き砂」という呼び名もなかった。
鹿家の砂浜も鳴いていたが、昭和30年代〜40年代頃から鳴かなくなった。昔は浜に打ち上げられていた海藻を食料や肥料として採っていたので、砂浜がきれいだったが、近年は採らなくなったので、海藻が浜に残り鳴かなくなったのかも知れない。
平成6〜7年、姉子の浜に建設省の道路施設のパーキングが出来たが、そのころはまだ鳴き砂は注目されておらず、建設に関して行政と地元住民とのやりとりはなかった。
姉子の浜の砂浜の幅が、年々狭くなっており、鳴き砂の浜が消失するのではないかと懸念される。
▽松林の変化
道の海側の海岸沿いには松林があり、松露(ショウロ=きのこ)を採っていた。木は風で陸側に傾いていた。
松林は藩政時代、唐津藩主が防風防砂のために植林した。松林の幅は、日陰に馬車を休ませるくらいの余裕はあった。明治22年に林の中を通る県道(後に国道に昇格)が敷設されたが、道幅は、浜に出るための車力が通れるくらいだった。幹線はこの海岸沿いの道路ではなく、山の中を通る「太閤道」のほうだった。その後県道は拡幅され、昭和16年頃までには松が伐採された。戦時中に軍隊が塩田を開発するために姉子の浜の松林を切り開き、さらに松食い虫の被害があったため、松林はなくなった。
▽塩田としての利用
戦中:軍の作った塩田では、パイプを引き海水を取り込んでいたが、設備が出来上がったころには終戦となった。現在ホテルが建っているところに釜があった。
戦後:大陸から引き上げてきた外部の人たちが、鹿家漁港のあたりに簡易な小屋十数軒の「串崎部落」を形成し、姉子浜で塩を作り、それを売って暮らしていた。部落は、戦後10年くらいの昭和30年〜34・35年くらいまであった。
鹿家村民も、見よう見まねで、自分の家の分くらいの塩は作っていた。
▽浜の裏山の利用(昭和初期まで)
姉子の浜の後背は雑木林で、狐の住みかだった。漁協の人が、海がしけて漁に出られないときは、イリコを炊くためのたきぎをとりに行っていた。
▽海からの視線
三峰:鹿家の老人クラブの名称は「三峰会」。これは鹿家が峰山(ミネヤマ)、甲峰(コウノミネ)、乙峰(オツノミネ/オドミネ)の三山にはさまれていることにちなむ。海から見ると、まったく同じ形の山が三つ並んでいるように見え、漁に出て悪天候で位置がわからなくなっても、その真ん中を目指せば鹿家に帰ってくることができるといわれていた。
浮嶽(ウキダケ):朝鮮半島の釜山からもみえるそうで、戦前・戦中に玄界灘を通り朝鮮へいく船からずっと見ていたということである。