日本財団 図書館


2. 過去の地域住民の生活と海辺との関わり

姉子の浜に最も近い鹿家集落の人々が、これまで生活の中で海とどのように関わってきたかをヒアリングした。姉子の浜に限らず、西隣の串崎、鹿家海岸との関わりも含めて記述する。

▽海藻・貝の採取(昭和初期)

入札制度:鹿家村は、半農半漁で、農業のかたわら漁をしていた。鹿家の漁業組合員の間で、鹿家村の海岸を7〜8つに区切り、入札して1年間の海藻を採る権利を得ていた。区切り方は、「この石からこの石まで」程度のあいまいなものだった。海藻の多い岩場の含まれる区域は範囲が狭かった。姉子の浜は、ほとんど砂浜で海藻があまりなかったので、浜だけで1区間になっており、入札の時もあまり人気がなかった。ハマグリ等の砂の中の貝は、入札と関係なく自由に採ってよかったので、よく採りに行っていた。

採取の仕方:海藻が採れるのは2月〜盆前の水温が低い時期だけ。海藻採りは女性や子供の仕事で、潮の頃合がいい月の1日と15日の前後1週間に、学校から帰ってきて手伝いで採りに行っていた。ヒジキ、ワカメ、アオノリ、アマノリ、テングサなどが採れ、それを売ると、半年分くらいの小遣いにはなっていた。流れ藻は、麦の肥料にしていた。採った海藻は、牛につないだソリで引き上げた。串崎の磯にサザエやアワビを取りにいくこともあった。

最近の状況:福吉漁協との合併以降は、入札制度はなくなった。現在、串崎周辺の海藻やアワビは漁業権のある人だけしかとってはいけないことになっている(ハマグリやアサリはとっていい。魚釣りはできる。)。漁協に加入し、一定の金額を納めている場合には、海藻を採る権利があり、「口あけ」以降は採ることができるが、海藻の量は以前の1/10に減った。現在はヒジキ、ワカメ、テングサが少し採れる程度。海藻の量が減りだしたのは終戦以降である。理由は、終戦直後の食糧難の時代に外部から採りに来たからと、ゴミが増えたからではないか。昭和30年代には、貨物船が座礁することがあり、あるいは唐津の貯蔵タンクからか、油が流れてきて、海藻にべったり付いていた。平成に入ってからは良くなった。ハマグリは昭和40年代頃の一時期は採れなかったが、最近増えている。

▽遊び場としての海辺

子供の頃、鹿家の浜で海水浴をしていた。貝掘りや海水浴にはいっていたが、海風が強く、それ以外で海で遊ぶということはあまりなかった。遊ぶとしたら、山のほうが多かった。

▽漂着物の変化と清掃

戦前は、特に砂浜の清掃を行うことはなかった。当時は漂着するゴミといっても、ワラや竹で、海岸端の家はこれを拾うことで1年分の焚き物がまかなえた。

現在のゴミは、缶やビニール、漁業の網やブイが多い。10年くらい前から、年に一回、老人クラブや区で浜の清掃をするようになった。各家のトラックを出してもらいゴミを集め、それをひとつのトラックにまとめて、町の清掃工場に持っていく。

鳴き砂が注目され初めてからは、福吉の人も姉子の浜まで掃除している。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION