3. 結核療養所からの排水(S35頃まで)
姉子の浜の後背地にこの一時期だけ、現福吉病院の前身である、結核療養所(富士見台療養所)が開設されていた。下水処理施設をもたなかったため、汚物や排水などがそのまま姉子の浜方面に流出していたと思われる。これが鳴き砂の汚染原因の一つとなっていた可能性が考えられる。
4. 食堂や現馬場用地造成(S40年代頃)
昭和45年前後に、国道沿いで姉子の浜に隣接して、割烹旅館「富士見」が営業をしていた。期間は10年足らずで、火事が原因で廃業した。また海の家などが営業していた時期もある。場所は、現在のパーキングと廃ホテルとの間にある土地の一部で、砂浜であったところを産業廃棄物等をもちいて造成された。この造成の際に、砂浜への不純物の混入と、砂浜自体の幅の減少が問題であると考えられる。
5. 塩田目的のための土地の造成(S18頃)
戦時中(昭和18年頃)に、陸軍によって軍用の塩田として開発されたが、設備ができあがった頃に終戦となった。現在ホテルが建っている辺りに塩釜があった。塩田開発の際に、砂浜の延長であった現在の馬場の辺りに、赤土を入れ整地した。そこへ海からパイプによって海水を流し込む仕組みであった。昭和27年頃に短期間ではあるが、(おそらく鹿家区で)塩田として利用されていたという話もある。
この造成された塩田跡地はその後(昭和30年代頃)、豚舎等が設置され、養豚場として利用されたこともある。
現在、土地の所有権はホテルの所有者が持っており、馬場として利用されている。
これら一連の造成や活動などが、その行為の行われた時期と姉子の浜が鳴かなくなった時期が重なることから、その直接的な原因であると考えられる。また現在は、この土地での活動が、とりあえず落ち着いていることから、砂浜の汚染もおさまっていると考えられる。このことが鳴き砂の浜としての復活と関係が深いと考えられる。
しかし、この造成地は赤土でできていることから、砂浜への流出などの懸念もぬぐい去れない。
またこの土地とは直接関連性はないが、昭和30年前後に、大陸からの引揚者が鹿家漁港周辺部や串崎の南東部に住みつき、十数軒の「串崎部落」を形成した。彼らは姉子の浜で、陸軍の塩田とは別に塩をつくっており、それから収入を得ていた。昭和34・35年くらいまで部落は存在した。当然、隣接した所での人の生活に伴う生活雑排水など、少なからず鳴き砂の汚染要因の一つにとなっていたと考えられる。