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(2) 姉子の浜周辺部における様々な事象

姉子の浜は周辺に人家がほとんどなく、人の往来や生業との密接な関係というものからは縁の遠い存在であった。しかしそうはいっても、近年になって九州の中心都市に急成長を遂げた福岡市と、近世の城下町であり観光都市である唐津市に挟まれた立地から、交通整備や生産用地としての開発、また近年のリゾート開発ブームなど、時代の波を少なからず受け続けてきた土地でもある。

このような影響のもと、太平洋戦争前後の時期を境にして、しばらくの間姉子の浜の砂が鳴かなくなったこともある。そこでその原因を探る手がかりとするため、様々な資料や文献また地元の人からの聞き取り調査を元にして、姉子の浜周辺部でなされた様々な事象を整理するとともに、鳴き砂への影響との因果関係を考察してみる。

 

1. 国道202号線(県道)整備

経緯としては、県道が出来る以前は内陸側の立花峠、籠立てを通る「唐津街道」が幹線であった。明治22年に、大入-鹿家間に県道が整備された。これが現在の国道の原形である。戦時中(昭和16年頃)に軍用車輌等が通れるように、現在の幅員に拡張された。この際にかねてから松食い虫の被害もあり荒れかけていた松林もほとんど切られてしまった。戦後、昭和37.8年以降から舗装され、幅員もさらに拡張整備されていった。また国道に並行して走るJRの筑肥線は、大正12年に北九州鉄道(株)によって、このあたりの区間が開通した。

これらの道路整備に伴う造成工事の際に、砂浜の幅の減少や工事に伴う土の流出、また後背地からの砂の供給に関して、その妨げの原因の一つになったと考えられる。

2. ミカン畑(S25〜38頃)

農家が個人的にミカン畑の開墾を行い始めたのは昭和25年頃で、さらに鹿家地区が山林を開墾してミカン畑を大がかりに造成したのは、昭和37-38年頃である。

この造成時にこのあたりの表層地質である、いわゆる赤土が海に流れ出て大量に流れ出ていた。これが姉子の浜の砂の中に不純物として混入し、一時期鳴かなくなった原因の一つとなったと考えられる。

 

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国道202号線と姉子の浜東端

 

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姉子の浜に迫る山々のミカン畑

 

 

 

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