戦前の主要産業であった農業の低迷を背景とし、戦前から続いていた本土への出稼ぎや海外への移住も多々みられたが、米軍が本格的に基地建設を開始した1950年頃以降、とくに基地周辺では、住宅や商店などの密集、異文化の吸収その他、経済面のみならず人々の生活のさまざまな面で、アメリカの影響を受け続けてきた。米軍統治下に設置された琉球大学は、また今日、各界でリーダー的地位を占めている人々の中には、米軍によるアメリカ留学の経験者が少なくない。また、敗戦後から1972年の本土復帰まで、わが国で唯一異国による長期的な支配下にあった沖縄では、統治者の言語は英語(米語)であり、流通する貨幣は米ドルであった。基地の存続についての賛否はさておくとしても、戦後から本土復帰までアメリカの統治下にあったこと、今日もなお、その存在が住民生活や産業経済活動に大きな影響を及ぼしている。
また、戦前から主要産業であった農業は、砂糖キビを換金作物として、明治期以前から、耕作してきた。しかし、主要作物である砂糖の国際市場での価格下落の一途をたどりはじめた大正期以降、離農者が増えていった。そのような中、南米、ハワイなどへの海外移住者は増え、それらの子孫との交流が今日も活発になされており、つい最近も、ハワイ移住100周年の現地での記念行事に、沖縄から多数の人々の参加があった。
外国人との日々のつき合いや交流をみると、琉球王国時代の中国、東南アジアと交流・交易や海外移住などの歴史に裏打ちされているところも大きいと思われるが、戦後から今日に至る歴史的社会状況のもとで、日常生活において、住民は外国人と接するにも身構えることなく自然体のままであり、また、英語をはじめ諸外国の言語にも違和感をおぼえることが少ない、と言った風土がある。すなわち、沖縄は、今日言われているところの国際性や海外との連携・協力などの素地に恵まれていると言える。
本調査研究の対象地である沖縄市を中心とし、12市町村により構成されている沖縄中部広域市町村圏(以下、中部圏という)域は、上述した歴史・文化性を共有し、国際性、国際色の豊かさを象徴する地域となっている。