江戸時代後期の画家、俳人で、京都に生まれる。6人兄弟の長男。京都では金座の平役といって現在の銀行員のような仕事をしていたが、後蕪村の弟子となる。天明元年父を失い次いで妻を亡くした傷心の月溪を師蕪村が気づかい、川田田福(京都の呉服商・俳人)の池田出店(支店)へ赴かせた。ここで心機一転、月溪は姓を「呉」、名を「春」と改めた。
江戸後期の画家で四条派の祖といわれ俳句もよくした。蕪村の死後天明6年京都木屋町に移り、円山応挙の影響を受け、写生を基礎に叙情味を加え、軽妙な筆致をもって社会的評価を得るに至った。京都四条東桐院に住み、そこに弟子達が集まったことから「四条派」と呼ばれるようになった。
主な作品は「雨中飛鷺図」「松鯉図」「月下砧図」など。
人物像は、司馬遼太郎の短編小説「天明の絵師」にも描かれている。
■富永仲基(1715年〜1746年)
江戸中期の思想家で大坂の生まれ。池田に住んでいた儒者田中桐江にも師事した。弟荒木蘭皐は桐江の高弟。懐徳堂で儒学・仏典を学び、神・儒・仏三道を歴史的に批判。主な著書は「出定後語」など。
京都大学の内藤湖南博士が大阪第一の天才と評価し、世界に通じる人物と考えられる。
江戸時代の大阪や池田で展開された町人文化と思想を知るため、池田歴史民俗資料館や池田市史編纂について、近年シカゴ大学をはじめ海外から注目されている。
■小林一三=逸翁(1873年〜1959年)
山梨県の生まれで慶応義塾(現慶応義塾大学)卒業。小説家を志したが三井銀行に入社。阪鶴鉄道監査役を経て1907年箕面有馬電気軌道株式会社(後の阪急電鉄)を創立し専務に就任した。1927年には社長に就任し1940年には第2次近衛内閣の商工大臣となった。
鉄道事業を宅地開発やレクリエーション開発と多角的に結びつけて発展させ、阪急電鉄をはじめ、宝塚少女歌劇団、東宝、東京電燈、三越など多くの事業に携わり成功を納めた。
池田には昭和11年(1936年)6月に自邸雅俗山荘(現在の逸翁美術館)を建て、その後約10年間居住した。
主な著書は「逸翁自叙伝」「私の行き方」「私の事業観」。