当地域は旧石器時代より人が住み、古墳時代には茶臼山古墳(五月丘1丁目)にみられるように先進地域であったと推定されている。
「日本書紀」によれば、呉の国から呉織(クレハトリ)と穴織(アヤハトリ)という機織り技術を持った織り姫がこの地(唐船が淵:現新町地区内)にたどり着き、応神天皇・仁徳天皇に仕え、機織り技術を伝えたともいわれている。
平安時代から鎌倉時代には呉庭の荘開発や文化の振興が行われた。また、当時の池田は西国街道や猪名川東岸を押さえ、京都の西面の防衛ラインとして軍事的にも重要な位置を占めていた。
南北朝時代に、国人池田氏が、五月山南山ろくに池田城を築き周辺地域にも勢力を伸ばしていった。その範囲は東西約330m南北約550mに及び細川氏の被官として摂津地方の国人の中でも相当な力を持つようになった。また室町後期には連歌師牡丹花肖柏が大広寺(五月山)近くに隠棲し、池田氏らに文雅の道を教え、池田の文化の素地を創った。後池田氏は織田信長に降伏し、元家臣荒木村重に城を奪われた。荒木村重は伊丹の有岡城へ移り、江戸時代を迎えずして池田城は廃城となり荒廃してしまったといわれている。
江戸時代は一時期を除いて幕府の天領時代が長く続いたが、在郷町(巻末3]用語説明参照)池田は近郷の物資交易の市と問屋の町として流通経済や商工活動の一大拠点として栄えた。中でも酒造業は元禄時代に全盛を迎え、全国的にも有名となった。また郷奥の池田炭や細河郷の植木と相俟って経済が発展した。このような経済力を背景に、旦那衆たちは呉春(松村月溪)などの著名な文化人の影響を受け、多彩にして格調の高い「池田文化」(和歌、俳諧、漢詩文、絵画、学問)を形成した。このころの池田村は人口約5,300人程度であったと考えられている。