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「いつ迎えに来てくれるかな。孫の嫁も見れたし、じいさんも死んだし、もうやり残したことはないからいつ迎えに来てもいいんだ。あとは迷惑かけないで逝きたいな。」と穏やかにおっしゃる方がいた。また、「私はじいさんも死んで、子供はいないからもう何も心配はないんだけれど、自分の墓を見てくれる人がいるかそれだけが心配だ。」と語る人もいた。人生の目的を1つ1つ達成した結果と老いていく間に経験した喪失というプロセスの中で最終的に喪失の全てをも受け止めて満ち足りた状態になると、人は死を急ぐわけでもなく、むしろ死を意識せずに過ごすことができるのかもしれない。死は生との連続と意識され、今日生きていることと明日生きることの連続と違いを感じないのかもしれない。このとき、死を求めるわけでもなく、拒否するわけでもなく、ただ日常の流れの経過として死というイベントがあるに過ぎないかのような落ち着きを感じた。今回のインタビューでは推論に過ぎず、死生感については憶測であることを断っておく。

信仰は自己の死との関係にあるのではなく、仏や先祖、神に対する忠誠ともいうべき役割を果たしているようであった。墓参りや参拝をすることで安らぎを得、それがかなわないと何となく不安になるようである。少数ではあったが、高齢者ほど仏や信仰を大切にするので、信仰の継続は精神的安定をいだくために必要としている高齢者もおり、その価値観はかなり個別である。

加齢とともに日常生活動作にも支障を来たすことを認識していれば、高齢になっても日常生活動作が問題なく行えることは相対的に価値あることと認識できる。しかし、一般的には変化がない場合やゆっくりとした変化が起こっている場合、相対的比較が困難なようである。しかし、高齢者が脳卒中などの障害で一度喪失しかけた機能をリハビリで回復していくことを体験したり他人と比較したりすることで、自分のADLの評価が可能になるようである。つまり、「あたった(脳卒中になった)ばかりの頃は、右手が全然だめで食事さえできなかったのが、今は庭掃除をしたり、掃除機をかけるくらいはできる。外出もできるようになったし、大分いいな。」というのは、自己の過去との比較での評価である。脳卒中後遺症で麻痺もある方が、他の人からみれば生活自立度も低く障害を抱えていて大変そうに見えても「最近は調子もいいし、気分もいいなー。体調もいい。」と本当に晴れやかにおっしゃることがある。一度障害を受容すると、そこからは実際的には recover なのであってマイナスから基準点に少し近づいただけなのに、本人にとっては"発展"として捉えることができるのである。回復の過程にしろ、老いの過程にしても、他人から見れば障害として捉えて援助したくなるのであるが、本人はできることはなるべく自分でしたいことが多い。むしろ過保護すぎて、自分のできることまでも援助されることで、つまりは自分の仕事を取り返されることで意欲が低下してしまう。これは結局、ADL 低下、自立度の低下につながる危険をはらんでいる。

生きがいは自己の生きている価値を感じたり、自分でやりたいことがあるような場合に感じるようである。社会とのつながりの中で自分が役割を持っていたり、仲のよい仲間がいたりすることで自己価値を感じることができる。そのためには、何か仕事を持っていたり、地域の中で存在感のある状況を作ることも1つの方法である。「最近は昔と比べて町内会の活動も減ってきた。」と残念がる独居高齢者もいた。町内会の活動を通して、地域社会での役割を実感し、自己の存在を表現したいというウオンツの現れであろう。ある90歳の独居高齢者は「バス停の掃除は私の仕事だ。」と誇らしげにいっていた。自分の役目を、地域社会の貢献という社会的負荷をつけて行うことで、自分の存在を主張しているようであった。また、自分のやりたいことについては、ゲートボールだったり、新たな趣味だったり、時にはデイサービスでのコミュニケーションだったり、孫との触れ合いだったりと人との触れ合いの中で見出すようである。盆栽や花などをいじるのが好きな人も、変化する生き物を扱っているという感覚が生きがいを与えているとも考えられる。

 

 

 

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