フランスでの展開の経緯を追ってみると、資生堂のフランスでの成功の一つの要素としての、フランスとの相性のよさを感じざるをえない。ジャポニスムからアールヌーボー、アールデコの成立、その影響下に生み出された資生堂デザインといった一世紀以上に及ぶ相互の芸術スタイルの交流がなければ、フランスにおいて「資生堂イメージ」がこれほどスムーズに受容されたかどうかは分からない。実際、1986年にパリで開催された「資生堂の美と広告1872〜1986」はパリで大変な好評を博し、資生堂の商品の「芸術性」が高く評価されたが、アメリカでの評価はそれらが「芸術」といえるのかどうか疑問を呈する評価もあった。「資生堂イメージ」の受容は、芸術や美というものに対する両者の感性や、またフランスが抱く「日本イメージ」と日本が受容してきた「西洋イメージ」とがうまくかみ合い融合することで生じた、ある意味で幸運な「出会い」であったとも思われるのである。
2. 商品開発
これまで資生堂の海外展開における文化的側面を中心に述べてきたが、以下では1975年の戦略見直し以降、具体的に商品開発や組織上どのような戦略がとられたかを概観していく。
国際商品の開発体制と基本ポリシー
海外戦略の見直しにともなって行われたのは、
1]国際統一商品の開発と製品ラインナップの充実
2]生産体制内における国際商品部門の位置付けを変更
3]商品のコンセプトの明確化
である。
1]は、それまでのように日本の製品を持っていったり、あるいは市場ごとに異なる製品を製造・販売することをやめ、「統一された技術と思想でつくられた一連の商品群」を国際統一商品として開発し、一方、販売やサービス、色調やパッケージカラーといった細部については地方の特性を徹底的にフォローするという方法をとるものである。一見、市場ごとのニーズをとらえた製品の開発・販売のほうが地域に密着して効果をあげられるようにも思えるが、逆にこの方法に転換してから海外での販売は伸びてきた。ここには、「国際的ブランド」としての地位が固まるにつれて、「資生堂」としての統一したイメージや商品が必要になったこと、基本的な方針転換などが容易に商品に反映させられることで生産効率という点からも有利であること、また基本が統一されているだけにそれ以外の細部の変更については地方特有の事情をかえって柔軟に取り入れることができる、といった事情がある。