資生堂の意匠部は1916年に発足し、のちに「資生堂スタイル」として完成するデザインは、アールヌーボーやアールデコ様式を取り入れ、それを日本の伝統的な美意識と融合させた「モダン」なスタイルである。この資生堂スタイルを作り上げるのに与ったクリエーターの一人である山名文夫は、フランスのファッション誌「ボン・トン」から強い影響を受け、そこに掲載されるイラストレーションを模写することでアールデコを吸収している。またイギリスの美術家オーブリー・ビアズレーのアールヌーボースタイルにも惹かれ、日本美術、特に浮世絵から影響を受けたビアズレーの作品には日本人としてのアイデンティティの投影を感じて強い衝撃を受けている。このように、資生堂スタイルが生みだされるにあたっては、19世紀末のジャポニズムの影響からフランスを中心としてアールヌーボーが生まれ、さらにそれが翻って日本人デザイナーに影響を与えるという、相互の感性の響きあいの歴史がすでに内包されている。
この資生堂デザイン誕生の経緯と、そこで作り上げられたスタイルを念頭において見たとき、資生堂がフランスでコーポレートアイデンティティとなる企業イメージとしてつくりあげた「資生堂イメージ」が、いかに直接的にこの系譜につながっているかがはっきりと見て取れるのである。
(5) 新しい「資生堂イメージ」の創造と「企業イメージ」
先に挙げた資生堂という企業のアイデンティティをシンボリックに、余すところなく表現する「資生堂イメージ」(ジェネリックイメージ)を作り出すに際しては、1980年にイメージクリエーターとして資生堂に参加したセルジュ・ルタンスの存在が大変に大きい。結果的に彼の作品を見ると、そこにあるのは「ニュー・アールヌーボー」スタイルとでもいえる、20年代資生堂スタイルの創造的発展である。彼自身は資生堂スタイルに影響を受けているわけではなく、むしろ日本に関わるイメージを生み出す出発点となっているのはロラン・バルトによる『表徴の帝国』である。直接の接点や影響関係がないにもかかわらず資生堂の「美」の系譜を受け継ぎ、結果としては「資生堂スタイル」に見られた東西の文化融合を、新たなかたちで見事なイメージに結実させたルタンスの作品は、「日本であり日本でない、西洋であり西洋でない」という世界市場における資生堂のブランドイメージを決定的にフランスの人々に印象付けることになったのであり、福原氏はルタンスを資生堂の「感性的親族」と評している。
企業の海外進出、海外展開といえば商品の普及のみが頭に浮かびがちな日本の事情にあっては、そもそもこのような「企業イメージ」の存在がなぜそれほどまでに重要なのかということ自体が分かりにくい。もちろん資生堂の場合もイメージ戦略だけで成功したわけではなく、後にのべるような商品開発、組織改革といった具体的な活動があって現在の欧米での地位を獲得したことは間違いない。しかし商品が受容され浸透するための「一線」を超えるときに企業としてのアイデンティティの確立とそれを表現する「イメージ」がどうあっても必要だったのであり、それなしに市場への浸透ははかれなかったという点で、まさに資生堂の海外展開は「文化接触」とその「受容」のプロセスそのものであった。