80年代に入ってからのイタリアでの健闘は、たしかに高い品質とイタリア国内における販売活動の積み重ねの結果には違いないが、90年代初頭に高級化粧品のトップブランドに上り詰めるに当たっては、フランスでの成功の影響が大きい。
そのフランスで、現会長の福原義春氏は75年以来続けられてきた「企業の原点」「アイデンティティ」に関わる問題意識のひとつの回答に似たものを得ている。フランスに進出した当初(1980)カナダのデパート、オランダのデパートのバイヤーから立て続けに資生堂商品がそれほどの宣伝をしないのに順調に売れていくのがなぜかと問われて、福原氏は「品質がいいからではないか」と答えたが、「初めて買う客がどうして品質がいいことが分かるのか」と逆に問われて答えに窮したのだという。そこから福原氏は「他の会社にない、また技術力や性能だけの差ではない、別な<何か>のオリジナリティが資生堂にあること、それはもともと製品をつくるときの思想、品質、外観にも、また販売の態度にも現れている<何か>であり、それはまたちょうど空気のように、自分では気がつかないユニークさをつくりだしている」ことを知ったと述べている。
後藤氏のインタビューで印象的だったのは「資生堂は企業が文化活動にも積極的に関与しているというのではなく、企業活動そのものを文化活動だと思っている」という一言であるが、福原氏が気づいた「資生堂の他とは違う<何か>」は、言いかえれば資生堂の「文化」と言ってもよいと思われる。
(4) 資生堂「文化」の系譜
一世紀以上におよぶ資生堂の歴史をここで詳しく追うことはできないが、何よりも資生堂がフランスで受け入れられたという事情の背景を考えると、創業以来の資生堂の「文化的系譜」を考えざるをえない。
福原有信が日本で初めての洋薬調剤薬局「資生堂」を創業したのは1872年。日本ではまだ漢方薬が主流で西洋薬による調剤は陸海軍など非常に限られた範囲でしか行われていない時代であった。有信は西洋薬学という新しい価値、新しい文化を広く日本に伝えたいと志して「資生堂」を創業し、1987年には初めての化粧品「オイデルミン」を発売している。明治政府が西洋文化のモデルタウンとして開発した再開発した「銀座」に本拠を構え、資生堂は以後銀座の「顔」として 「西洋風」、「先進性」を「化粧品」という商品を通して発信していった。
有信の後を継いだ福原信三氏はコロンビア大学薬学部に学び、その後ヨーロッパに滞在し、とくにパリでは洋画家の川島理一郎、山本鼎、藤田嗣治といった日本人画家と交際しており、この時代の人脈がのちに「意匠部」を設立し、「資生堂デザイン」を生み出していく上で大きな力になっている。