1973年にはアメリカで多大の在庫をかかえて営業が行き詰まり、生産と販売の大幅縮小に踏み切ったため、「資生堂は再起不能、全面撤退か」と現地の雑誌で騒がれることにもなった。
国際部スタッフとして海外で勤務していた社員は1970年代半ば頃まではまとまった「国際戦略」や「国際事業展開の方針」はなく、試行錯誤の状況だったと述べている。自身もヨーロッパで資生堂がまだ無名のころから、イタリア、フランスに駐在して長年営業活動を行ってきた、現広報部次長の後藤豊氏は、当初の状況を振り返って「ヨーロッパでの資生堂なんて、『え、資生堂って何』といった具合で、たとえば今日本にバングラディシュのメーカーがゲームソフトを売りにきたとしたら、バングラディシュにゲームソフトメーカーがあったのかって驚くような、そんな感じでした」という。その後藤氏が国際事業展開の転換点として、またその後への影響として「大変大きかった」と述べるのが、1975年頃から始まった国際部を中心とする海外戦略見直しのための議論と、それに続く組織の改革だった。
ここで交わされた議論が面白いのは、具体的な店舗展開や商品開発といった営業販売レベルの問題でなく資生堂という企業の「原点」と「アイデンティティー」に関わる問題意識が出発点になっている点である。海外での事業を進めてきた中で現場のスタッフがもっとも大きな「問題」と感じ、追求する必要性を感じたのがこのような「企業アイデンティティー」に関わる部分だったのである。「資生堂のアイデンティティーや化粧品会社としてのユニーク性がどこにあるのか」という問いを基本に据えた議論は2年近くに及び、その後の海外戦略の具体的見直し作業はすべてこれらの議論の結論を受けるかたちで進められていった。
この議論の一応の帰結として認識された点は以下のとおりで、今振り返って資生堂の海外展開を見てみると、実際これらの認識がすべての土台になっていることがはっきり伺える。
1]資生堂は薬局をオリジンとしている化粧品メーカーであること
2]東洋医学的なアプローチと最新技術の結合を図っている化粧品メーカーであること
3]約一世紀にわたり、日本の文化と西洋の美の融合によるハイ・ブリッドな美を革新的に創造してきたメーカーであること。
(3) フランスへの進出
資生堂がヨーロッパで地歩を固めたのはイタリアが最初である。コスメティチ・イタリア設立後、はじめの15年間は徐々に市場に浸透しながらも格別に存在が際立っていたわけではなく、中位メーカーとして「存在すれども統治せずのような状態」であった。これが80年代に入ると、フレグランスを除く分野では常に上位10グルーブに顔を出すようになり、91年にはメーキャップおよびスキンケア分野で、強敵のランコムを抜いて高級化粧品分野における販売シェア第一位を達成している。