前述のように、1]の立場をとる者の多くがDavos Cultureに近い関係にあるのにたいし、3]に属する論客は国民国家という対象に機能的意義にとどまらず文化的・道徳的な意義さえも見出しているのが通例であり、前述の杉山光信の整理を使うなら、「日本文化論」の領域に登場する知識人たちと近い関係にあるといえよう。さらにいうなら、3]を中心とした反グローバリズムの知識人たちは、多かれ少なかれその判断根拠を「文化」の領域に求めていることが認められる。つまり、あらゆる生活領域がグローバルな市場メカニズムに巻き込まれることによって、各種の個別共同体に固有の文化的伝統が侵食され、実質的にはアメリカ文化によって圧倒されてしまうことへの危機感がその動機になっているのである。
以上、経済的グローバリゼーションをめぐる知識人の動向を概観してきた。そこから明らかになったのは、グローバリゼーションの進展によって必ずしも日本の知識人の間にDavos Cultureが浸透するにはいたっておらず、むしろ何らかの規模の共同体を拠点としてグローバリゼーションに対抗しようとする動きが活発になっていることである。
3. 小括
最後に、これまでの議論を要約しつつ、グローバリゼーションをめぐる現代日本の知識人の類型化を試みたい。
冷戦終結以降、国内でも55年体制が終焉し、日本の論壇はますます混迷を深めている。そこには旧来の保守と革新、右翼と左翼といった座標軸では説明のつかない新しい動向が見られるのであり、そのなかでもとくに重要なポイントが、アメリカに由来するグローバリゼーションの影響にたいして日本はいかに対応すべきかという問題をめぐる対立である。グローバリゼーションの浸透にともなって経済や情報のボーダーレス化が進み、国民国家の基盤がゆらぐ状況が生じているが、これにたいする日本の知識人の反応は、次の2つの対立軸によって整理できるだろう。すなわち、・Faculty Club Cultureの影響のもとで個人の人権を重視する立場と、これとは反対に国家の秩序維持を重視する立場の対立、・Davos Cultureを基盤として市場原理や経済的合理性を重んじる立場と、むしろ日本の伝統や共同体を重んじる立場との対立、の2つである。この2つの軸を使ってできる4つの象限に代表的な知識人を位置づけることによって、グローバリゼーションにたいする彼らの反応パターンは図のように類型化できる。