2. 経済的グローバリゼーションをめぐる知識人の動向
次に、経済におけるグローバリゼーションの趨勢をめぐって知識人の間で交わされてきた議論をふりかえることで、現代日本における知識人のグローバリゼーションとのかかわりを考察し、知識人文化のなかでのDavos Cultureの位置づけを検討してみたい。90年代の日本の論壇を賑わした中心テーマの一つは、経済のグローバリゼーションをめぐる議論であった。こうした議論は、主として現在の日本において影響力をもつ経済学者や経済評論家の言説から成り、Faculty Club CultureよりもむしろDavos Cultureと関連をもつものであるが、グローバリゼーションにたいする日本の知識人の反応のパターンを知る上で無視できない重要な素材を提供してくれると考えられる。
まずこれまでの経済論壇での議論の流れをまとめておこう。佐和隆光が述べているように、60年代から70年代前半ころまでの経済論壇では、「日本古来の制度・慣行は打破すべき旧弊」であるとの論調が支配的であって、いわゆる日本的経営は克服すべき旧体制の負の遺産であるという評価が一般的であった。こうした評価は戦後日本の社会科学一般において支配的パラダイムの一つであった 「近代主義」の帰結であった。ところが70年代後半から80年代前半にかけて、米国の経済的衰退が日本の経済的成功と対照を見せ、日本企業のパフォーマンスへの評価が高まってくるとともに、日本的経営への国内外での評価も肯定的になっていった。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などはその象徴である。
こうした論調は80年代後半にいたって変化し始める。85年のプラザ合意以降、貿易不均衡解消策として「国際協調」が唱えられ、グローバリズムが優勢になるにつれ、日本礼讃論は退潮に向かったのである。これに代わって、欧米知識人から「ヤマトイズム」批判が噴出し、反文化相対主義が擡頭してくる。80年代末にファローズ、チャーマーズ・ジョンソン、ウォルフレンらによって展開された日本批判は、単に日本の経済構造に向けられたものではなく、日本人論・日本文化論とも関わっていた。こうした海外からの批判や、日米構造協議や安保改定30年を契機とする日米関係見直し論議を受けて、日本でも経済論壇の論調が変わってきたわけである。その際、「消費者の利益」を擁護することが日本の経済構造の改革の必要性を論じる上での正当化の根拠となった。このように日本の論壇における経済的グローバリゼーションの問題は、もともと日米経済摩擦―アメリカ側から見れば閉鎖的な日本市場の開放への要請―という現実的文脈を背景として議論されはじめたのであり、グローバル・スタンダードと見なされたものの多くはアメリカの経済構造の特性であった。
90年代に入ると、経済的グローバリゼーションは「規制緩和」をキーワードとして論じられるようになる。93年には細川内閣が94項目からなる「規制緩和」策を発表し(この言葉はこの年の「流行語大賞」を与えられた)、95年には村山内閣が「規制緩和推進5カ年計画」を閣議決定するなど、一連の規制緩和が重要な政策課題として否応なく論壇の焦点に浮上してきたのである。たとえば94年に航空業界の規制緩和の是非をめぐって「グループ2001」と中谷巌・伊藤隆敏の間に交わされた論争では、価格の低下、雇用機会の拡大といった規制緩和のめざす目的については合意があったものの、この目的の達成にとっての規制緩和の現実的な効果については評価が対立した。