60年代から70年代にかけての高度経済成長期は、こうした公害問題がピークに達した時期であった。この時期の公害問題を象徴したのが水俣病である。水俣病の告発には医学関係者だけでなく、「不知火海総合調査」の色川大吉や鶴見和子、石田雄など社会科学系の幅広い分野の知識人がコミットし、住民運動を支援した。こうした公害告発型の環境運動がさらに大衆化する契機となったのは、75年に発表された有吉佐和子による小説『複合汚染』である。この小説は62年にアメリカで出版され大反響を巻き起こしたレイチェル・カーソン『沈黙の春』の問題提起を受け継ぐかたちで、化学物質汚染の脅威を一般市民に認識させることになった。この『複合汚染』以降、日本の環境運動は公害告発型から消費者運動へと大衆的な広がりを見せるようになる。そしてこうした消費者運動の高まりとともに、80年代にかけて大気汚染をはじめ河川や空港などの開発にたいする住民訴訟が相次いで起こり、また原子力発電所への反対運動も国内各地で展開されるようになった。そこにはもちろんグローバリゼーションにともなう欧米の環境運動の影響もあったが、なおも政府・企業対住民という旧来の問題設定が受け継がれており、その意味ではむしろマルクス主義の影響を受けた知識人の動向の方が大きな意義をもっていた。
こうした環境運動の日本的特質を考えるうえで重要な手がかりを与えてくれるのは、とりわけ捕鯨問題である。欧米諸国では早くから野生生物保護や自然環境保全への意識が高まっていたが、日本では公害による人的被害や生活環境の改善という課題が解決されずに存在しつづけたため、野生生物や自然環境が環境問題の主要なトピックと認識され始めるのは80年代後半以降であった。そこにはマルクス主義の影響のもとで、批判の矛先をもっぱら政府や企業に集中させてきた日本の環境運動の特質があらわれているといえる。たしかに80年代後半以降はグローバリゼーションの影響が増大し、欧米の環境運動が紹介されるなどしたため、地球規模の環境を問題にしようとする動きも出てくるが、そうした環境意識の変化にもかかわらず、野生生物や自然環境の問題にたいする知識人の反応は鈍かった。とくに捕鯨問題に関しては、捕鯨を「日本文化」として捉える見解が支配的であり、そこではFaculty Club Cuitureによるグローバリゼーションの影響が比較的少ないということができるだろう。
90年代に入ると、環境問題の焦点はそれまでの公害告発や消費者運動的な問題設定から、「地球温暖化」などといったより大きな地球環境の問題へと移っていき、グローバリゼーションの影響が増大した。97年に京都で開催されたCOP3(地球温暖化防止京都会議)の影響もあり、地球環境問題への認識は知識人や市民の間にかなり浸透したといってもよいだろう。ただし「日本文化」を擁護する立場や、従来型の環境運動も依然として大きな影響力を保っており、環境問題においては必ずしもFaculty Club Cultureが支配的になってはいない。その点からすると、むしろ環境問題を取りまく日本固有の文脈が中心的な意義を持ちつづけているといえよう。