これにたいし佐和隆光や島田晴雄などといった経済学者は、規制緩和のもとで労働の自由化・国際化は不可避であるとし、外国人労働者の積極的受け入れを要求した。このようにグローバリゼーションの推進をもとめる主張の一部には、人手不足に悩む経済界の利害が反映していたことはいうまでもない。
一方、以上の「鎖国派」や「開国派」とは異なり、国内に外国人不法就労者が存在することを前提として、彼らの人権擁護をもとめる声もあがった。外国人差別の撤廃や定住外国人への地方参政権の開放を要求した進歩的知識人がそれであるが、一部のフェミニストはさらに外国人と日本人との国際結婚や、それによって生まれた「無国籍児」の問題にも焦点をあてた。こうした人権擁護運動の思想的バックボーンを成していたのは、Faculty Club Cultureによって培われた国際的な人権思想であったといえよう。ただしそこには日本固有の文脈も大きな影響を与えていた。たとえば鶴見俊輔は戦中にハーバード大学に学んだ国際派であり、出入国管理体制の見直しを唱えるなど人権擁護運動を指導した代表的論客であるが、その思想の根底には日本の大衆文化や庶民思想にたいする深い理解があった。
以上のような知識人の動向から影響を受けつつ、90年には入管法の改正案が施行され、日本政府の外国人労働者問題への対応が固まる。それは特別な技能や知識を有する外国人にたいしては門戸を広げる一方、単純労働をもとめる外国人には制限を厳しくするものであり、こうした「制限付き開国」というべき政策が、現在にいたる政府の既定方針となっている。
(2) 環境
次に環境問題へのFaculty Club Cultureの影響について見ていきたい。
日本の環境問題は近代化の裏面としての公害から生まれ、公害とともに展開してきたといってよい。公害の歴史は環境問題にたいする日本固有の文脈を形成し、知識人文化に大きな影響を与えつづけてきた。このように日本ではグローバリゼーションに先行するかたちで独自の環境運動が展開してきたのだが、90年代に入ると環境問題へのグローバリゼーションの影響が徐々に増大してきた。
まず80年代までの公害問題の歴史と環境運動の展開を概観しておこう。日本の公害問題の原点としては、なによりも足尾銅山の鉱毒事件があげられる。同事件では帝国議会議員・田中正造が谷中村の住民とともに立ち上がり、公害を告発する先駆的な運動を展開したが、この運動には当日の進歩的知識人や社会主義者たちも多数コミットしていた。そこには産業の近代化を進める政府や企業と、公害の被害者である地域住民の対立、そして進歩的知識人が住民側を支援するという公害問題の基本的構図が成立していた。それはグローバリゼーションの影響を受ける以前の日本固有の環境連動の形態を示すものということができるだろう。