1. Faculty Club Cultureの影響
上述のように、Faculty Club Cultureとは知識人に共有される人権・環境・フェミニズムなどに関するイデオロギーのことであるが、日本の知識人の間では、このようなイデオロギーはグローバリゼーションが浸透する以前から比較的強かった。その理由としては、江戸時代から固有の成熟した文化体系をもっていたことや、日本の知識人がかなり早い時期からマルクス主義の影響を受けていたことなどがあげられる。したがって、ここではとくにグローバリゼーションの影響と日本固有の文脈とを明確に区別することがもとめられよう。
以下では人権・環境。フェミニズムの3項目について、Faculty Club Cultureの影響を概観することにしたい。
(1) 人権
まず日本の人権問題にFaculty Club Cultureがいかなる影響を与えたかについて、とくに在日外国人の問題を中心に検討していきたい。
戦後日本の人権に関する議論のなかで、在日韓国・朝鮮人の問題が常に大きな位置を占めてきたことには異論がないだろう。日本の人権問題は、過去の不幸な歴史によって生じた在日韓国・朝鮮人の問題と密接に結びついて展開してきたのだった。その点からいえば、日本にはグローバリゼーションの影響を受ける以前から、歴史的経験をもとに人権に関する日本固有の認識枠組が形成されていたのである。
これにたいして70年代半ば以降になると、グローバリゼーションの影響を背景にして外国人政策を中心とする人権問題の状況に変化が生じ始める。それはとくに75年にベトナム難民(後にインドシナ難民)の受け入れ問題が生じたこと、また同年に先進7カ国首脳会議(サミット)が発足したことによって、日本が否応なく自国の国際的立場を自覚せざるをえなくなったためであった。国際社会からの圧力を受けた日本は、79年に国際人権規約、82年に難民条約に加入し、社会保障の対象を日本国民から日本住民に拡大するという方向で外国人政策を転換していった。そこには国際的な人権思想の流入という意味でのグローバリゼーションの影響が見いだされ始めていたといえよう。
80年代半ば以降になると、「就学生」や外国人労働者の急増によって、日本はグローバリゼーションの波に激しくもまれるようになる。とくに85年のプラザ合意によって急激な円高が進み、国内外の所得格差が増大したため、アジア諸国や中東の「出稼ぎ労働者」中南米のブラジル、ペルーの日系人などが急激に流入し、国内の中小企業の人手不足もあいまって、外国人労働者の資格外就労が急増した。95年現在、国内で就労する外国人は約60万人、そのうち約半数が不法残留であるといわれている。このような状況のもとで、90年頃から外国人労働者の不法就労が社会問題化することになったが、この問題にたいする知識人の反応は大きく3つに分かれていた。まず西尾幹二や西部邁を代表とする保守派の論客は、外国人労働者による犯罪の増加や外国人同士の民族争い、新たな差別問題の発生に懸念を表明し、日本は外国人労働者の受け入れに慎重であるべきとする「労働鎖国」論を唱えた。